アグリッパ・ゆうきの読書日記5『フーコー入門』フーコーの思想も生涯もそして本書も無益な受難ではないのか

フーコーの思想も生涯もそして本書も無益な受難ではないのか】

 『フーコー入門』中山 元  (著) (ちくま新書) 1996

フーコーは初期の精神医学批判と晩期の性の歴史しか知らなかったので、全体像を知るのに手頃だと思い、読んでみた。分かりやすくしかもレベルを落とさず全体像を提示する作者の手腕はなかなかのものと見た。

 けれども、フーコーの知的営為を最初からたたかいの連続として捉え、晩年には「キリスト教の司牧者権力に、近代の福祉国家の権力の起源をみていた」(p.198)とし、「フーコーはこの闘いは帝国主義に対する闘いやファシズムに対する闘いとは質のことなるものであり、非常に困難なものであることを認めている。/これと闘う必要があるのかーーというのは当然の疑問だろう」(p.187)と自問するくだりまで読んできて、なんだか、フーコーの思想も生涯も(そして本書もまた)無益な受難であるような、脱力感に襲われてしまった。

 無益な受難とは、サルトルの「人生とは無益な受難である」という言葉に由来する。当のサルトルの死が報じられた時、吉本隆明が、サルトルの生涯こそ無益な受難だったではないか、という言葉を新聞に寄せていたことが思い出されたのだ。吉本の真意は、マルクス主義が大衆に敵対して大衆に見放されつつあったちょうどその時期にマルクス主義に転向するという、サルトルの知識人的なエリート意識、時代勘の悪さを、衝いたものに相違ない。フーコーについても全く同型的な構図が見られる。そもそも福祉国家とは一握りの「権力者」(笑)の陰謀なのではない。今夜も、癲癇を隠して運転したクレーン車の暴走事故で子供を失った6組の親たちが大量の署名を集めて運動をしたお蔭で、病気を隠して免許を取った場合の罰則の強化と医師の任意通報制度の新設という道路交通法の改正に漕ぎ着けられたというニュースが報じられていた。親たちは涙を流して喜んでいた。フーコー流に言えばこれも「管理社会の強化」なのだが、このプロセスを見ても分かるように、そして評者もまたマイノリティの人権擁護の運動にタッチした経験から分かるのだが、福祉社会の担い手とは、まさにこの6組の親たちのような、弱者、被害者、マイノリティなのだ。

 もちろん福祉社会への違和感は、ゲイというフーコーのスタンスから言って分かりすぎるほど分かる。だが、それにしてはゲイを表面に押し出すのが遅すぎだ。また、巨悪に立ち向かうというニュアンスの「闘う」という発想そのものも、巨悪と闘っていたつもりでいたら自分自身が巨悪だったというのが現代における「反権力」の運命である以上、何とかしなければならない。最晩年には何とかしようという試みが見られるようだが、これも遅すぎた。私が思うには、ゲイのような絶対少数派が「最大多数の最大幸福」を目指す社会に対するには、「闘う」のではなく「逃げる」ことを戦法にせざるをえないだろう。

 ともあれ、今となっては反面教師として以外にフーコーを読む値打ちはないのかもしれない。

(2013年6月9日)

 

アグリッパ・ゆうきの読書日記4『メディアと知識人』(竹内 洋)日本の社会科学のいい加減さがわかる

『メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却』竹内 洋 (著) 中央公論新社 2012

【日本の社会科学のいい加減さがわかる】
 

傍系的知識人だった清水幾太郎を正系的知識人丸山真男と対比させて描いている。
 最初の方で印象に残ったのは、丸山の戦後すぐの講演「日本ファシズムの思想と運動」を分析しているくだりだ。この中で丸山は、戦前戦中のインテリを職業によって小学教員などの「疑似インテリもしくは亜インテリ」と大学生や教授などの「本来のインテリ」の階層に分け、ファシズムを煽ったのは疑似インテリ階層で本来のインテリは消極的だが抵抗した、と言う。けれどもここには、ドイツやイタリアでなされたような、ナチ(国民社会主義ドイツ労働者党)やファシストの支持者の階層職業を統計的に明らかにするような研究が一切なされた形跡がない。従ってこれは、「「本来のインテリ」というものはファシズムに協力する人々ではない。したがって「本来のインテリ」はファシズムに協力的でなかった」という循環論証にすぎないと、批判する。
 評者は70年安保に大学生として立ち会った世代だが、清水の『現代思想』を発刊当時面白く読んだぐらいで(何が書いてあったか全く覚えていないが)、丸山真男は今に至るまで読んだことがない。科学崇拝のくせにマルクス毛沢東の非科学を科学と取り違えたり、主観的願望を科学的状況分析と思い込んだりする日本の社会科学者の頭の悪さが当時から分かっていたからだ。ちなみに、「研究室では社会主義、街へ出れば資本主義、家に帰れば封建主義」という日本の社会科学者への当てこすりが昔からあるが、ベルリンの壁崩壊以後は、「戦前は軍国少年、戦後はマルクス青年、今は恍惚の人」と言うということを、歴史学専攻の先輩から聞いたことがある。評者は心理学専攻なので、日本の戦後左翼の心理学的解剖をいつかやってみたいと思っている。その手のものに、フランクフルト学派による、ナチスは「権威主義的パーソナリティ」だという実証的研究があるが、その後あまり取り上げられなくなったのは、この尺度を用いると左翼もまた権威主義的パーソナリティだという結果が出てしまうからだというのは笑える。
 なお、本書では清水幾太郎の論壇からの忘却は、2度にわたる転向のせいだという。もしそれが本当なら、日本の論壇・マスコミはますます頭が悪すぎることになる。現実を見て理論を修正するのは科学の基本ではないか。清水はそれまでの自分の左翼的社会理論が現実によって反証されるのを見て、理論を修正したのであろう。それを節操がないなどと非難するのは、信心家の態度であっても科学者の態度ではない。むしろ本書によって、日本の社会科学者の中では例外的に清水が近代的な科学者精神の持ち主であることを確認できた。(2013年1月17日)

 

 

アグリッパ・ゆうきの読書日記3『精神病棟の二十年』松本 昭夫 (著) 2001 (新潮文庫)

『精神病棟の二十年―付・分裂病の治癒史』 (新潮文庫) 2001

松本 昭夫 (著)

 うーん、タイトルから20年間、精神病棟に閉じ込められっぱなしと想像していたのに、出たり入ったり。そして、まだ入院中から再就職の活動をして、しかも、営業マンなどという、どう考えても統失に向かない職種なのに、現に何度も再就職に成功している。女性関係も華やかだし。ホントに統失ですか?と聞きたくなるくらい、症状が軽い。元松沢病院院長の金子嗣朗氏が付録で書いているように、漱石と同じく、統失と躁うつ病が重なり合った非定型精神病かもしれない。
 症状が軽すぎ、色々恵まれ過ぎ、参考にはならない。こんなことをいうのも、どうしても私の兄と比較してしまうから。兄が発病したのは1964年、21歳で、東大生でした。その時は半年で退院しましたが、27歳で、商社員だった時に再発し、それ以後、詳しい事情は憚りますが、廃人になりました。私は関西の大学に行っていて滅多に帰省しなかったのですが、後で母に再発の経緯を聞いて、よくもまあ、これほど、節目節目で最悪の選択を続けたものだと、あきれ返ったものです。
 その理由は、両親も東大生の筈の兄本人も文学的教養と無縁だったことにあると、詩人の手になる手記であって優れた自作の詩もいくつか収録されている本書を読みながら、今更ながら思い返されます。
 兄の話に戻りますが、そもそも1964年という時代に、母は、主治医から、「今は医学が進歩しているから治るんですよ」とか、「5年たって再発しなければ治ります」などと、奇妙なことを吹き込まれて、すっかり真に受けていたらしい。そもそも、医者の言う統失が「治る」とは、「退院できる」という意味なのに、家族の方では「完全に元に戻る」という意味にとってしまって、就職にも結婚にも「人並み」を本人に強要して、結果的に再発させてしまう。そんな悲劇を、後に家族会に出たりして、散々見聞きしたものでした。兄の場合も、卒業どころじゃなかったのに、親のプレッシャーで無理やり卒業させ、挙句は就職先は大手商社などという統失者には最悪の所。もし、少しでも教養があれば、統失になった時点で、世俗的な出世コースなど問題外だと分かったでしょうに。
 その点、本書の著者は、仏文科を出て詩人志望だっただけあって、世俗には半身に構えていられた。そこに余裕が生まれて、良い方に作用したのだと思いますよ。仏文科といえば、私がかつて勤めていた地方大学で同僚だった仏文学者は、ゼミでカミユの異邦人を原書で読ませる効用について、こう語っていたのを思い出します。「最初、学生たちは、世の中のために役立つ人間にならねば、という固定観念でガチガチになっているんだよ。けれども、異邦人を読んでいるうちに、あるところで、回心とでもいうものが起こる。世の中に役立つような人間にならなくていいんだ、と悟るんだよ。」
 著者にあって私の兄になかったのは、このような意味での文学的素養だったのでしょう。ちなみに兄は、大学の卒論では毛沢東をやり、就職しても職場の「党細胞」に属するという、社会的正義感でガチガチの人でした。
 また、この著者が、自らの病気の解釈としてフロイディズムに惹かれるのも、当然なことです。むしろこの自己解釈もまた、著者の病気の回復に役に立つ「物語」だったのでしょう。物語なき無意味な脳神話などに、人間は耐えられないのだから。著者は、病院にはカウンセリングなど全くない、といぶかっていましたが、これこそまさに、日本の精神医療が、フロイトなど一度も受け入れたことなく、一切の意味ある物語を拒否して脳神話にかじりついてきたことの、現れと思います。そのエピゴーネンみたいなレヴューも、本書の過去のレビューにはあるようですが。ちなみに、「精神疾患の生物学的要因説の普及が精神疾患スティグマ化を改善するどころかひどくしていることが、色んな実証的調査から明らかになりつつあるという、恐らく当事者や支援団体にとって最も衝撃的な事実」が、『クレイジーライクーアメリカ』に紹介されています。参考までに。

こころの科学とエピステモロジー、研究ノート:科学的根拠(Evidence)という規範の起源

科学においてエヴィデンスがあるとは、

1.観察の公共性

2.観察の再現性

という二本柱からなると考えられている。けれども、これらを規範として最初に定式化したのが誰であるかは、あまりにも常識になり過ぎて、はっきりしない。

 最近、『精神医学の科学哲学』という本を読んで、それが化学者ボイルであるというヒントをつかんだ。「化学者ボイルがすでに17世紀に、公共性と再現性に相当する規範を提案していたという。「ボイルは王立協会から得られる証言の管理に大きく成功した。この証言管理の方法は次の特徴を備えている。/・名前を明かした個人による実験の目撃。/・これらの個人には、嘘を述べていたことがわかれば失うものがある(誠実さの評判など)。/・実験は追試できるため、証人の嘘が反証される可能性がある(現実的な可能性は低いにしても)。/・証人の増加。」『精神医学の科学哲学』(レイチェル・クーパー著、伊勢田哲治・村井俊哉/監訳、名古屋大学出版会、2015 、pp.250-251)このうち一番目の特徴が公共性、三番目と四番目が再現性の規範に相当するといえる。

 ただし、クーパーは科学史家ではないので、シェイピン, シャッファー『リヴァイアサンと空気ポンプ――ホッブズ、ボイル、実験的生活』吉本秀之監訳, 柴田和宏, 坂本邦暢訳, 名古屋大学出版会, 2016(Shapin, S., & Schaffer, S. (1985) Leviathan and the Air-Pump: Hobbes, Boyle, and the Experimental Life. New Jersey: Princeton University Press)を元にしている。

 今、国会図書館でこの本を読んでいるが、なるほど啓発的な本だ。特に、第2章「見ることと信じることーー空気学的な事実の実験による生成」(pp51-98)で一次資料に基づき詳細に論じられている。

「ボイルが提案したのは、事実を確立するのは個々人がもつ信念の集積だということであった。‥‥事実とは、ある人が実際に経験し、自分自身にたいしてその経験の信頼性を請けあい、他の人々に、彼らがその経験を信じることには十分な根拠があると保証するというプロセスの結果としてえられるものであった。このプロセスのうちで根本的だったのが、目撃経験を増加させることであった。経験は、たとえそれが厳密に制御された実験の実施であったとしても、目撃者が一人しかいなければ事実をつくりだすには不十分であった。もそその経験がおおくの人間に拡張されたならば、そして原則的にいってすべての人間に拡張されたならば、そのとき結果は事実となりえた。このため経験は認識論的なカテゴリーであると同時に、社会的なカテゴリーであるともみなされねばならない。実験的知識の基礎をなす要素、また適切に基礎づけられていると考えっれた知識一般の基礎をなす要素は、人為的につくられたものであった。それらをつくっていたのはコミュニケーションと、コミュニケーションを維持しその質を高めるために不可欠だと考えられたあらゆる種類の社会形式だった」(pp.53-54)。

「実験によって生みだされた現象の目撃者を増加させる別の重要な方法は、実験の再現を容易にすることだった。実験の手順の報告は、読者が同じ実験を再現できるようなかたちで書くことができた。そうすることで、遠く離れた地に、直接的な目撃者を生み出すのである。」(p.82)

 これで見ても、スチーヴンスが科学としての心理学とは「他者の心理学」である、と断言したのも、当然という気がする。そしてまた、自己経験から出発する現象学当事者研究の方法論的課題も、はっきりする。2020年8月1日。

前回都知事選(2016)での小池百合子候補への社民党による差別的攻撃を思い出す

都知事選は小池百合子さんの圧勝に終わりました。よかったですね。

 前回都知事選で、社民党党首による差別主義的攻撃を受けた時から、小池百合子支持を決めていましたから(都民ではないですが)。

 差別主義的攻撃というのは、現在の社民党党首である福島瑞穂氏が、選挙宣伝カーで、「小池百合子さんは女性ではなくて女装したタカ派の男性です」といったトンデモない言いがかりを連呼して回っていたことを指します。

 これが、女装男性というLGBTへの通俗的なマイナスイメージを利用した差別的発言であることは、反差別運動が進展した現在では、明らかでしょう。

 社民党の、時代に取り残された体質は、この何十年、変化していないようです。

 つい最近も、こんな事実を知りました。

 社民党の前身と言えば日本社会党。その社会党の理論的中枢にいた向坂逸郎氏が、東郷健氏(ゲイを代表して毎回選挙に出ていた人)と1978年に週刊ポストの企画で対談した際に、「ソビエト共産主義になったらお前の病気は治ってしまう」と発言したというのです(東郷健著『常識を越えて オカマの道70年』より)。

 もっとも、2002年には、旧社会党系の保坂展人世田谷区長が、東郷健氏の出版記念パーティ席上で、「ゲイは病気であり、ソビエト社会主義になれば治る」と発言したが、これは誤りだ、申し訳ない、と陳謝しました。また、向坂氏が代表を務めていた社会主義協会も同年に機関誌『社会主義』で、彼の発言を自己批判しているということです(以上、森口朗著『左翼老人』扶桑社新書、2019、pp159-160より)。

 けれども、個別的に反省したり謝罪したりしても、古い左翼的人間観自体が変わらなければ同じことをくりかえしてしまうでしょう。前回都知事選での福島党首のTG差別がその例です。さすがに今回はそのようなことはなかったようですが、またいつか、別のことでくりかえしてしまう可能性があります。

 古い左翼的人間観とは、マルクス主義の「存在拘束性」という世界観に由来します。文化や思想やさらには人間の精神的な正常異常も、資本主義的生産様式といった下部構造によって決定され(拘束され)ているという社会学還元論です。「存在が意識を決定する」というテーゼで表されます。

 だから文化や芸術も、精神的な正常異常も、政治的に価値判断できる、ということになってしまいます。行きつくところは中国や北朝鮮のような全体主義国家です。

 これについては、2020年4月1日記事に詳しく書き、「存在拘束性」に代わるオルタナティヴとしての、現象学でいう「視点拘束性」についても説明したので、くりかえしませんが。

 なお、この4月1日記事は、「学問の自由と民主主義のための現象学」という題で、大学の自治と学問の自由に関するブックレットの一冊に収録される予定となっています。

 私としては初めての、政治的メッセージ性を含む公刊物ということになります。

 出版されたらお知らせします。

 

 

手作りの科学としての夢研究No4

■12 夢事例4「子犬が蝉になる夢」

●夢事例4 「子犬が蝉になる夢」

 2019年12月4日(金)。前の方は憶えていない。
 子犬のような何かと友だちになったのだった。
 そのうち、その何かは、ビニール製の犬小屋のような中に籠ってビニール製の壁にくっつき(図省略)、「アリガトウ」と呟く。そして、動かなくなった。蛹になりつつあるのが分かった。
 背中がしだいに割れて、巨大な蝉が姿を現す。
 その後、蝉は、飛んで行ったわけではなく、ペット屋みたいなのがいて、そこに貰われて行った。
 そこに、妻が戻ってくる。せっかくの脱皮の場面は見なかったのだが、何か言った。
 私は、これがそうだ、と、ペット屋の屋台のようになった店先を指差す。
 このあたり、店先の光景は、記憶が薄れてぼんやりしているのか、それとも元々ぼんやりした光景なのかは分からないが、はっきりしない。後者かもしれない。夢の中で、随分ぼんやりしてるな、と思ったことを覚えているような。

 脱皮して巨大な蝉が現れるのは、涼宮ハルヒシリーズの「エンドレスエイト」で、キョンが、等身大の蝉が戸口を叩く場面を想像して気分くなったというくだりを、連想させる。
 「アリガトウ」は、同じシリーズの『涼宮ハルヒの消失』で、長門有希キョンに、「ありがとう」という場面を連想させる。

●夢の物語構造分析

・序幕(提示) 子犬のような何かと友だちになったのだった。
・第二幕(展開)そのうち、その何かは、ビニール製の犬小屋のような中に籠ってビニール製の壁にくっつき(図省略)、「アリガトウ」と呟く。そして、動かなくなった。蛹になりつつあるのが分かった。
・第三幕(クライマックス)背中がしだいに割れて、巨大な蝉が姿を現す。
・終幕(終結)その後、蝉は、飛んで行ったわけではなく、ペット屋みたいなのがいて、そこに貰われて行った。

 夢はまだ終わっていないが、これだけで四幕構造として完結している。だから、「そこに、妻が戻ってくる」のくだりは、別の物語のようで、そこにも四幕構造が見て取れないこともない。

・序幕(提示) そこに、妻が戻ってくる。
・第二幕(展開)せっかくの脱皮の場面は見なかったのだが、何か言った。
・第三幕(クライマックス)私は、これがそうだ、と、ペット屋の屋台のようになった店先を指差す。
・終幕(終結)このあたり、店先の光景は、記憶が薄れてぼんやりしているのか、それとも元々ぼんやりした光景なのかは分からないが、はっきりしない。後者かもしれない。夢の中で、随分ぼんやりしてるな、と思ったことを覚えているような。

 このように構造化してみると、後の物語の中で前の物語が話題にされているという、入れ子構造が認められる。ただし現実に劇であるように前の物語は単に話題にされただけではなく、私自身が後の物語よりもむしろ迫真的に体験していると感じられる。それに比べると後の物語は、「夢の中で、随分ぼんやりしているな、と思った」とあるように、夢の映像を半分醒めた意識で評価しているようなところがあり、迫真性が薄れている。

●夢の異世界分析+現象学的分析

・前の物語。
 序幕~第二幕~第3幕~終幕 「子犬のような何か」→「蛹」→「蝉」→「ペット屋に貰われていく」という推移。空想的設定。連想すればテクストが見えてくる。
 第二幕 「子犬のような何かは「アリガトウ」と呟くと‥‥」は、『涼宮ハルヒの消失』の中での、ヒロインの一人長門有希が、「ありがとう」と主人公のキョンに言う最後の場面を連想させる。
 第3幕 巨大な蝉は、同じシリーズの『涼宮ハルヒの憂鬱』の中で、等身大のセミが恩返しに来て戸口にいるのを想像して気分が悪くなった、というキョンの語りを連想させる。
 ラノベ&アニメの「涼宮ハルヒシリーズ」の世界観が見えてくる。そうすると、「子犬のような何か」も『涼宮ハルヒの憂鬱』のかなり初期のエピソードで、SOS団の活動で、市中探索を長門有希とペアですることになったキョンが、「「行くか」といって歩き出すとついて来る。段々俺もこいつの扱い方が分かってきた」という場面を連想させる。宇宙人妄想に囚われている無口で無表情の読書少女と思ったのだが、キョンに対しては一途で従順なのである。
 そこから、「子犬のような何か云々」は、子犬のような長門有希が巨大セミのように恩返しに来て、「アリガトウ」と呟く、というような、涼宮ハルヒシリーズの世界観を踏まえた物語だと分かって来る。

・後の物語。
 一転して現実にありうる話になる。空想的な物語は妻への話の中に入れ子になり、証拠として「これがそうだ、と、ペット屋の屋台のようになった店先を指差す」が、「店先の光景は、記憶が薄れてぼんやりしているのか、それとも元々ぼんやりした光景なのかは分からないが、はっきりしない」と、もはや証拠として機能しなくなっている。

●夢の意味――深層のテクスト

 思いきってまとめる。「涼宮ハルヒシリーズ」での、(一人称で語る)主人公キョンとヒロインの一人長門有希との(実際の物語では長門有希の片思いに終わった)恋物語を、現実に体験したかのように感じていて、それを妻に話す。けれど、現実だという証拠を示すことができないでいる。

■13 夢事例5「時間割・教室が分からない夢」

●夢事例5 「時間割・教室が分からない夢」

 2019年12月16日(月)。
 非常勤講師を務める大学にいた。
(夢でよくあることだが)教員なのに時間割・教室が分からない。教務事務室の前で、教員用時間割がないか、訊いていた。
 その後、その大学の教員らしき人物と同行して歩いている。一学生として聴講したい講義があったので、その担当教員かもしれないと思いながら。「日本文学ですか‥‥」と尋ねるが、答えがはっきり思い出せない。その人物が言うには、私が聴講したい講義の主の姓は度忘れしてしまっていたが、名は確か「官九郎」とかいったとか、答える。
 「‥‥官九郎、あれは凄いですね。ドストエフスキー研究で」と、その人物が言ったのか、私が言ったのか(メモでは判別がつかないが)。
 バスに乗って終点まで行く。これから関空からフライトする予定。
 でも、バスの止まったビルに入っても、空港らしいところがない。
 二階へ上がり、通路を探して歩いているうちに、あるドアがガラス張りで、中で授業らしきことをやっているのがみえる。
 ノックして、関空はどこか尋ねると、出てきた(たぶん女の)先生が、道順を説明してくれる。「ここからずっと真っ直ぐあっちへ進んで、右(左?)へまがって‥‥」と説明するが、複雑なので、生徒をひとり(小学生?)つかまえて来て、案内するよう指示。
 この辺で目が覚めた。

 教員なのに時間割・教室が分からずウロウロするという夢は、かなり頻繁に見る。
 関西にいてそこから空港に行くが、見つからなくて焦るという夢も、よく見る。連想すると、30歳で、初めての就職で高知大学へ辞令を受け取りにいった時に、京都から直行バスで大阪空港に行くとちゅう、渋滞に巻き込まれてフライトに乗り遅れてしまい、空港そばのホテルに泊まって翌日、高知についたことが思い出される。その時、出迎えてくれたY助教授(当時)は、前の晩は高知空港で待ちぼうけを食わされ、翌日改めて出迎えてくれたのだった。
 そんな、迷惑をかけたYさんも、夫人からの喪中欠礼の葉書で、先月亡くなったことを知った。79歳と書いてあった。感無量である。

●夢の物語構造分析 

・序幕(提示) 非常勤講師を務める大学にいた。/教員なのに時間割・教室が分からない。教務事務室の前で、教員用時間割がないか、訊いていた。
・第二幕(展開)その後、その大学の教員らしき人物と同行して歩いている。(中略)「‥‥官九郎、あれは凄いですね。ドストエフスキー研究で」と、その人物が言ったのか、私が言ったのか(メモでは判別がつかないが)。
 ・第三幕(クライマックス)バスに乗って終点まで行く。これから関空からフライトする(中略)通路を探して歩いているうちに、あるドアがガラス張りで、中で授業らしきことをやっているのがみえる。
 ・終幕(終結)ノックして、関空はどこか尋ねると(中略)‥‥」と説明するが、複雑なので、生徒をひとり(小学生?)つかまえて来て、案内するよう指示。

 夢の前半(序幕~第二幕)と後半(第三幕~終幕)は同じテーマの反復と思われる。

●夢の異世界分析+現象学的分析+夢の意味

 慣れてきたせいか、夢の意味まで一挙に分かったので、まとめて述べる。

 前半の意味は、自分の職場にいても迷宮のなかに迷い込んだように感じている。後半の意味も、(私が空港を使うのは海外の学会に出張する時にほぼ限られるが、関空からのフライトは最初の勤務先である高知大学へ初めて行った時の体験がもとになっているので)自分の職場のなかで迷宮に迷い込んだように感じていることの、反復である。

  このように同じテーマが反復されていることは、強調と見てよい。自分の職場というアトホームであるべき場所でも迷宮に迷い込んだように感じているとは、夢全体の意味は、そもそもこの世界を巨大な迷宮に迷い込んだように感じている、ということになるだろう。

■おわりに 「心理的現実」とは世界のどこにあるのか?

 ここで、「深層のテクスト」が描き出すという「心理的現実」とは、世界のどこにあるのか、という疑問が起こるかもしれない。

<なお、「夢の現象学169~171の簡易要約版は、『こころの科学とエピステモロジー』第2号の巻頭記事「エディトリアル 手作りの科学としての夢研究」としてダウンロードできます。>

◇◇◇◇◇お願い!インターネットにも著作権があります。本ブログより引用の際はブログの著者名とURLを必ず明記するようお願いします。◇◇◇◇◇

手作りの科学としての夢研究No3

【手作りの科学としての夢研究No2】から続く。

10 夢事例2「海の彼方からの侵略で逃げ惑う夢」

 続いて事例2を分析する。この事例を含めて、夢事例1から夢ブログにアプロードされた5つの事例をすべて分析することにする。論文に書く場合、とかく、「サンプリングの恣意性」(都合のいい事例ばかり取って来たのではないかという嫌疑)といった批判を受けやすいので、分析しやすいかどうかは二の次にして、ある程度は機械的に、順序通りに分析にかけねばならない。もちろん、初心者の場合は、分析しやすい夢から始めても構わないのだが(現象学的分析にとっては、どこから始めても同じ結果がでることについては、渡辺(2018)参照)。

● 夢事例2 「海の彼方からの侵略で逃げ惑う夢」

2019年11月17日。海の彼方からの侵略で逃げ惑う夢。

 海のそばに建つ大きなマンションのような建物の中に、たぶん十人前後の仲間たちといた。
 何かが海の彼方から侵略しに来るというので、建物の内部をにげまどっていた。宇宙人かも知れない。でも、私たち以外の人々は、知らないようだった。
 マンションも危なくなったので、隣接する、研究所らしき敷地に、無断で入り込んだ。窓の中に、所員らしき人影が、デスクワークにいそしんでいるのが見えた。
  と、警戒音が鳴り響く。とはいえ、研究所の中の人々に目立った動きはないので、無視して敷地を突っ切る。
 憶えているのはこれだけだ。本当はもっと長いストーリーがその前にあったはず。目ざめてすぐメモしておけば芋蔓式に夢全体がたぐり寄せられると思って、3行ほどメモをしておいたのだが、正午ごろになってこうして書きだして見ても、メモ以上には何もよみがえらない。

●夢の物語構造分析

・序幕(提示) 海のそばに建つ大きなマンションのような建物の中に、たぶん十人前後の仲間たちといた。
・第二幕(展開) 何かが海の彼方から侵略しに来る~建物の内部をにげまどっていた。宇宙人かも~私たち以外の人々は、知らないようだった。
・第三幕(クライマックス) マンションも危なくなったので、~窓の中に、所員らしき人影が、デスクワークにいそしんでいるのが見えた。
・終幕(終結) と、警戒音が鳴り響く。とはいえ、研究所の中の人々に目立った動きはないので、無視して敷地を突っ切る。

●夢の異世界分析

・序幕 現実には覚えがないが、あったかもしれない。
・第二幕 宇宙人かもしれない何かが海の彼方から侵略しに来ることを知っているのは「私たち」だけ。現実にはありえない空想的設定。
・第3幕 第二幕からの流れとしてはあり得る展開。
・終幕 第3幕の流れとしてはありうる展開。

●夢の現象学的分析

・第二幕について、(夢の現象学(169)の)表2「夢世界の原理」①と④を適用する。①から、「宇宙人かもしれない何かが海の彼方から侵略しに来ることを知っているのは「私たち」だけ」と空想した。④から、「あたかも宇宙人のような何かが彼方から侵略しに来るかのように私はこの世界を感じている。しかもこの脅威を知っているのは「私たち」だけという孤立感がある」。
・第三幕、終幕。第二幕からの流れとして自然の展開なので、第二幕で設定された世界観の延長として捉えられる。

●夢の意味――深層のテクスト

 第二幕に集約される。

――私は、「宇宙人かもしれない何かが海の彼方から侵略しに来るらしい。このことを知っているのは「私たち」だけなのだ」と空想する。それは、「あたかも宇宙人のような何かが彼方から侵略しに来るかのように私はこの世界を不安定に感じていて、しかもこの脅威を知っているのは「私たち」だけという孤立感がある」からである。

 これは、「仮説」のように響くかもしれない。ホールのシリーズ分析では、夢分析は一人について10以上のシリーズについてなされるのがよいとされる。それは、最初の方の夢で作られた仮説(たとえば、嵐の海を小舟で漂うといった舞台背景は、世界と人生をそのように感じていることの具象化)が、後の方の夢で検証・反証される可能性があるからである。けれども、「考察」の項で論じるように、現象学では仮説を作らない。ここに解釈された夢の意味とは、ある夜のある状況で見られた特定の夢という「視点」を通して見られた「深層のテクスト」であって、決定的に間違っていたり絶対的に正しかったりするものではない。単に、より多くのデータに接することで、より多面的な視点を通して眺められ、ここでの洞察が精緻化されていくという過程であって、仮説→検証の過程とは違う。

11 夢事例3

●夢事例3 「赤茶けた雄大な風景」

 2019年11月29日(金)。最初の方は例によって憶えていない。

 S君が出てきて、何か話したような気がするが、はっきりしない。とにかく、自然の風景の中を、自転車を走らせているのだった。
 山腹のようなところで、町に向かって行くつもりだったが、ある道を選んで行くと、さらに二股に分かれる。その左側を行くと、どうやら道を誤ったらしく、大きな谷間に沿って道は少しづつ登り坂になっている。
 これでは町とは反対方向になってしまう。
 大きな谷の、赤茶けた雄大な風景がひろがる。
 すると、J先生がスマホに電話してくる。C市と連絡が付いたから、話してみるか、とのこと(この辺、電話の相手のJ先生が、直接出てきたような気がする)。道に迷っているので助け舟を出してくれるだろう、という意らしい。J先生は政治力があるから、可能かもしれない。
 この辺で目が覚めた(午後2時ごろ)。

●夢の物語構造分析

・序幕(提示) S君が出てきて、何か話したような気がするが、はっきりしない。とにかく、自然の風景の中を、自転車を走らせているのだった(友人が出てくる前半は別の夢かもしれないが、便宜上ここにまとめておく)。

・第二幕(展開)山腹のようなところで、町に向かって行くつもりだったが、ある道を選んで行くと、さらに二股に分かれる。その左側を行くと、どうやら道を誤ったらしく、大きな谷間に沿って道は少しづつ登り坂になっている。

・第三幕(クライマックス)これでは町とは反対方向になってしまう。/大きな谷の、赤茶けた雄大な風景がひろがる。

・終幕(終結)すると、J先生がスマホに電話してくる。C市と連絡が付いたから、話してみるか、とのこと(この辺、電話の相手のJ先生が、直接出てきたような気がする)。道に迷っているので助け舟を出してくれるだろう、という意らしい。J先生は政治力があるから、可能かもしれない(ユングによると、終結(ending)とは解決(solution)もしくは破局(catastrophe)のことだというが、ここはかなり綺麗な「解決」になっている)。

●夢の異世界分析

序幕 「S君が出てきて、何か話したような気がするが、はっきりしない。」大学時代の友人で九州在住。長く病気療養中ということで50年近く会っていないが、最近手紙のやり取りをしている(彼はパソコンを持っていない)。現実には会う可能性のない遠方の友人と話していたところに異世界性がある。

序幕の後半から第二幕~第3幕にかけて。見たことのない風景の中、自転車で道に迷っている。山中で道に迷ったことはあるが、自転車でではない。現実に経験してなくともあり得ることだが、「大きな谷の、赤茶けた雄大な風景がひろがる」には非現実感がある。

終幕。現実にはあり得ないと思うが、J先生ならいかにもやりかねないと思わせる状況だ。世田谷の家の使い道について、ご子息が不動産経営をやっているというので、だいぶ前相談しかけたことがあった。電話と言えば、半年前にJ先生から電話があった。私は、その当時の学会のいざこざを巡ってのことだと思い込んで、出なかったものだ(あとで誤解だと分かったが)。

●夢の現象学的分析

序幕 S君とは手紙のやり取りをしていて、まるで実際に話しているかのように、心の内でも対話している。

序幕の後半から第二幕~第3幕。まるで見知らぬ光景の中で迷っているかのように、自分を感じている。

終幕 世間通で政治力もある人物を頼りにしたいというところがある。

●「夢の意味――深層のテクスト

 序幕のS君のくだりは前の(別の)夢に属するものとみなして省略する。
 夢の意味はこうであるーー私は見知らぬ光景の中に迷い込んだように自分を感じているが、反面、世間通で政治力のある人物を頼りにしたく思っている。

<続く>

 

◇◇◇◇◇参考文献「他者になる夢の現象学的解明:フッサール志向性論に基づく主題分析」渡辺恒夫著『質的心理学研究』17:66-86、2018(新曜社発売)。
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