「学問の自由と民主主義のための現象学」が『表現の自由と学問の自由ー日本学術会議問題の背景』(社会評論社)の1章として出版された。

■2021年2月21日。

最近、「学問の自由と民主主義のための現象学」という一文を、下記のブックレットの第6章として執筆した。

寄川条路(編)、稲正樹・榎本文雄・島崎隆・末木文美士・不破茂・山田省三・渡辺恒夫(著)『表現の自由と学問の自由―日本学術会議問題の背景―』(社会評論社、2021)https://www.shahyo.com/?p=8478

 内容は、1年前にこのブログに書いた「現象学は学問の自由と民主主義の原理である」(2020/4/1)の文章に手を加えたもの。
 ただし、その間の情勢の変化を踏まえて、出版社側の意向として、空きスペースで学術会議問題について触れるよう、著者校の段階で注文がついた。

 私は以下の文章を最後の「付記」に書き加えて校正に出しておいた。

・学術会議問題にも触れるよう編者に言われたので、当時、知人に語った言葉を記しておく。「以前某学会の役員をしていた頃、学術会議会員学会枠が回ってきて推薦したことがあったが、いつのまに現任会員が後任を推薦するように変ってしまった。今時現任が後任を推薦する人事など北朝鮮である。どっちもどっちだ」

 ところが、送られてきた実物を見ると、1行目の事情説明がカットされて、

・以前某学会の役員をしていた頃、学術会議会員学会枠が回ってきて推薦したことがあったが、いつのまに現任会員が後任を推薦するように変ってしまった。今時現任が後任を推薦する人事など北朝鮮である。どっちもどっちだ。

 となってしまっている。会話を引用したつもりが、地の文になってしまっているのだ。地の文の終わり方として、これではあまり「学術的」ではないではないか。

 といったことを、やんわり編者に言おうかな、と思っていたところ、編者から舞い込んだ「正誤表」を見て、その気が失せた。

 なんと、「序章」執筆者名の「末木文美士」が、「末木文美子」になっていたのだ。実は、著者校の時にこれは気が付いていたのだが、執筆者自身か編者が気づくだろうと思って、言わないでおいたのだった。

 印刷工は、女性名によくある名だと思い込んで「子」にしてしまったのだろう。キラキラネームとまではいかないが、あんまり洒落た名というのも考えものだ。ちなみにこの方には数年前ある学会で同席したことがあった。肩書は東大名誉教授。内容も序章にふさわしい力作だと思った。

 内容に移るが、予想通りというか、8人の執筆者の中で私だけが別の方向を向いているのだった。編者の寄川条路氏には次のようなメールを送って、執筆意図を明らかにしておいたので、引用しておく。

‥‥連赤事件からベルリンの壁崩壊にいたる「左翼崩壊」を厳密に同時代的に体験した者として、証言を何らかの形で残しておきたいと思っておりました。これを「右傾化」などと胡麻化さずに、きちんと代案を提起するようにしなければ、いつまでたってもリベラルな民主主義は日本に定着しないでしょう。そのような機会を与えていただいたことに感謝します。‥‥

研究日誌(2021/1/21)ヤスパース『精神病理学原論』/アモーダル知覚

ヤスパース精神病理学原論』

「もうかなりまとまりのない患者はこう述べた。『私には安らぎはこれっぽちおなくなってしまい、何千年もさまよい廻って、知らないうちにくりかえし生れ変っているのだが、こうなるのは世界の創造の力によるのだ。』(p.72)

 精神病理学の事例であるが、輪廻転生の教義を自力で作り出す体験が存在することを、物語っていはしないか。

●アモーダル知覚

 たとえ、Nanay[1]のいうように様相なき知覚がimageryの働きだとしても、そのimagery自体が、フッサールの志向性分類によれば定立的準現前化であって、visualizationのような非定立的準現前化ではないだろう。
 では、なぜ特定のimageryが定立的で(対象の実在性確信を伴い)、他のimagery(visualization)が非定立的(実在確信を伴わない)かというと、モーダルな知覚内の構造的不変項の違いと言うしかあるまい。したがって、これは、花瓶の背面を直接知覚しているというギブソン流の主張に還元されるのだ。(2020、12月24日、国図にて)。

[1]Nanay, B. (2010). Perception and Imagination: Amodal perception as mental imagery. Philosophical Studies, 150, 239–254.

学術会議は北朝鮮か

■学術会議問題
 数日前、世田谷の家で造園家の方に庭の手入れをして貰っていると、私の職業(元の)について近所から聞きつけていたらしく、日本学術会議会員の選任拒否の問題をどう思うか訊かれた。私は、20年前に某学会の役員をしていた時に、学術会議会員の推薦枠があって、役員会で推薦をしたことを思い出した(どなたを推薦したかは覚えていない)。ところがそれ以後制度が変わり、前任の会員が後任を推薦する仕組みになってしまったらしい。しかも私ども一般の研究者の知らないところでである。前任者が後任を推薦する人事など、北朝鮮である。現在の学術会議は我々一般の研究者を代表するに値する組織とはいえない。だから今回の問題は、どっちもどっちである。そんなことを言うと、ハアー、なるほど、という顔をしていられた。
 造園家の方は新聞に投書したりして言うところの意識高い系なので、たぶん期待された答えとは違っていたかもしれない。ちなみにわたしは、新聞といえばサイエンス欄ぐらいしか見ない、意識低い系です。

こころの科学とエピステモロジー、研究ノート:科学的根拠(Evidence)という規範の起源

科学においてエヴィデンスがあるとは、

1.観察の公共性

2.観察の再現性

という二本柱からなると考えられている。けれども、これらを規範として最初に定式化したのが誰であるかは、あまりにも常識になり過ぎて、はっきりしない。

 最近、『精神医学の科学哲学』という本を読んで、それが化学者ボイルであるというヒントをつかんだ。「化学者ボイルがすでに17世紀に、公共性と再現性に相当する規範を提案していたという。「ボイルは王立協会から得られる証言の管理に大きく成功した。この証言管理の方法は次の特徴を備えている。/・名前を明かした個人による実験の目撃。/・これらの個人には、嘘を述べていたことがわかれば失うものがある(誠実さの評判など)。/・実験は追試できるため、証人の嘘が反証される可能性がある(現実的な可能性は低いにしても)。/・証人の増加。」『精神医学の科学哲学』(レイチェル・クーパー著、伊勢田哲治・村井俊哉/監訳、名古屋大学出版会、2015 、pp.250-251)このうち一番目の特徴が公共性、三番目と四番目が再現性の規範に相当するといえる。

 ただし、クーパーは科学史家ではないので、シェイピン, シャッファー『リヴァイアサンと空気ポンプ――ホッブズ、ボイル、実験的生活』吉本秀之監訳, 柴田和宏, 坂本邦暢訳, 名古屋大学出版会, 2016(Shapin, S., & Schaffer, S. (1985) Leviathan and the Air-Pump: Hobbes, Boyle, and the Experimental Life. New Jersey: Princeton University Press)を元にしている。

 今、国会図書館でこの本を読んでいるが、なるほど啓発的な本だ。特に、第2章「見ることと信じることーー空気学的な事実の実験による生成」(pp51-98)で一次資料に基づき詳細に論じられている。

「ボイルが提案したのは、事実を確立するのは個々人がもつ信念の集積だということであった。‥‥事実とは、ある人が実際に経験し、自分自身にたいしてその経験の信頼性を請けあい、他の人々に、彼らがその経験を信じることには十分な根拠があると保証するというプロセスの結果としてえられるものであった。このプロセスのうちで根本的だったのが、目撃経験を増加させることであった。経験は、たとえそれが厳密に制御された実験の実施であったとしても、目撃者が一人しかいなければ事実をつくりだすには不十分であった。もそその経験がおおくの人間に拡張されたならば、そして原則的にいってすべての人間に拡張されたならば、そのとき結果は事実となりえた。このため経験は認識論的なカテゴリーであると同時に、社会的なカテゴリーであるともみなされねばならない。実験的知識の基礎をなす要素、また適切に基礎づけられていると考えっれた知識一般の基礎をなす要素は、人為的につくられたものであった。それらをつくっていたのはコミュニケーションと、コミュニケーションを維持しその質を高めるために不可欠だと考えられたあらゆる種類の社会形式だった」(pp.53-54)。

「実験によって生みだされた現象の目撃者を増加させる別の重要な方法は、実験の再現を容易にすることだった。実験の手順の報告は、読者が同じ実験を再現できるようなかたちで書くことができた。そうすることで、遠く離れた地に、直接的な目撃者を生み出すのである。」(p.82)

 これで見ても、スチーヴンスが科学としての心理学とは「他者の心理学」である、と断言したのも、当然という気がする。そしてまた、自己経験から出発する現象学当事者研究の方法論的課題も、はっきりする。2020年8月1日。

前回都知事選(2016)での小池百合子候補への社民党による差別的攻撃を思い出す

都知事選は小池百合子さんの圧勝に終わりました。よかったですね。

 前回都知事選で、社民党党首による差別主義的攻撃を受けた時から、小池百合子支持を決めていましたから(都民ではないですが)。

 差別主義的攻撃というのは、現在の社民党党首である福島瑞穂氏が、選挙宣伝カーで、「小池百合子さんは女性ではなくて女装したタカ派の男性です」といったトンデモない言いがかりを連呼して回っていたことを指します。

 これが、女装男性というLGBTへの通俗的なマイナスイメージを利用した差別的発言であることは、反差別運動が進展した現在では、明らかでしょう。

 社民党の、時代に取り残された体質は、この何十年、変化していないようです。

 つい最近も、こんな事実を知りました。

 社民党の前身と言えば日本社会党。その社会党の理論的中枢にいた向坂逸郎氏が、東郷健氏(ゲイを代表して毎回選挙に出ていた人)と1978年に週刊ポストの企画で対談した際に、「ソビエト共産主義になったらお前の病気は治ってしまう」と発言したというのです(東郷健著『常識を越えて オカマの道70年』より)。

 もっとも、2002年には、旧社会党系の保坂展人世田谷区長が、東郷健氏の出版記念パーティ席上で、「ゲイは病気であり、ソビエト社会主義になれば治る」と発言したが、これは誤りだ、申し訳ない、と陳謝しました。また、向坂氏が代表を務めていた社会主義協会も同年に機関誌『社会主義』で、彼の発言を自己批判しているということです(以上、森口朗著『左翼老人』扶桑社新書、2019、pp159-160より)。

 けれども、個別的に反省したり謝罪したりしても、古い左翼的人間観自体が変わらなければ同じことをくりかえしてしまうでしょう。前回都知事選での福島党首のTG差別がその例です。さすがに今回はそのようなことはなかったようですが、またいつか、別のことでくりかえしてしまう可能性があります。

 古い左翼的人間観とは、マルクス主義の「存在拘束性」という世界観に由来します。文化や思想やさらには人間の精神的な正常異常も、資本主義的生産様式といった下部構造によって決定され(拘束され)ているという社会学還元論です。「存在が意識を決定する」というテーゼで表されます。

 だから文化や芸術も、精神的な正常異常も、政治的に価値判断できる、ということになってしまいます。行きつくところは中国や北朝鮮のような全体主義国家です。

 これについては、2020年4月1日記事に詳しく書き、「存在拘束性」に代わるオルタナティヴとしての、現象学でいう「視点拘束性」についても説明したので、くりかえしませんが。

 なお、この4月1日記事は、「学問の自由と民主主義のための現象学」という題で、大学の自治と学問の自由に関するブックレットの一冊に収録される予定となっています。

 私としては初めての、政治的メッセージ性を含む公刊物ということになります。

 出版されたらお知らせします。

 

 

アグリッパ・ゆうの読書日記2『転生したらスライムだった件』のヒロイン、リムルの正体

今まで、川上泰樹の漫画版(第1-15巻、講談社シリウスブックス)の作画の魅力にだけ目を奪われていたけれど。

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漫画版第2巻。初めて性別無き幼女形に擬態

 

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漫画版第3巻オーガ族との闘い。やはり、小説版挿絵やアニメ版と比べても、漫画版でのリムルの愛らしさは際立ってます。特に瞳の描き方が違う。


 原作小説版も構想はなかなかすごい。第16巻まで読み進めて分かってきた。

以下、ネタバレになるが‥‥

これって、創造神の転落と再生の神話ではないの?

世界を創造した竜神が人間の女性と交わった。するとその力のほとんどを生まれてくる子どもに奪われて、自分は人間の男性となって、人間としての寿命をまっとうして死んだ。ちなみにこの子どもこそ後に魔王ミリムとなる。

 だから、失敗を反省し、やり直すために、異世界(つまりこの世界)に普通の人間の男性として転生し、37歳までゼネコンの社員三上悟をやり、事故で死んで、元の世界にスライムとして戻ってきた。

 なぜスライムかというと、最弱の魔物からやりなおし、あまたの試練をへて元の地位まで復帰しなければならないから。
 もう一つ、スライムは性別がないから。

 創造神だけでなく、その妹弟にあたる三体の竜種も、みな、異性で失敗している。氷結竜ヴェルザードは悪魔出身の最強魔王ギィに、灼熱竜ヴェルグリンドはミリムを生んだ女性の兄にあたる勇者ルドラに惚れた。そして暴風竜ヴェルドラは勇者クロエに「見惚れ負け」して封印されてしまった。

 このスライム、リムルは、自分より強者でも取り込む。最初にヴェルドラを取り込み、次に異世界人で同郷の女性シズさんを取り込む。そしてこのシズさんのルックスをわがものにする。つまり、シズさんの顔をした美少女(ただし体は無性のままの)に擬態できるようになる。

 ヴェルドラを取り込んで得た力と、シズさんを取り込んで得た魅力、そしてもちろん、サラリーマン男性としての仕事の経験を活かし、魔物の国の主へとのし上がり、やがて最強魔王へと進化する‥‥。

 もちろん、Web版は読んでないので、単行本版15巻目で、ヴェルグリンドが闘いの最中にふっとそんな気がしてきた、というところで、私もそんな気がしてきた、という段階なのですが。

アグリッパ・ゆうの読書日記1『異端カタリ派の歴史』

2020年5月11日。

最初に取り上げる本は『異端カタリ派の歴史』(ミシェル・ロクベール、武藤剛史/訳、講談社選書メチエ、2016)。756頁ある辞書のような分厚い本を、三週間かけて読了しました。

 日本語で読める中ではカタリ派研究の決定版なのですが、読んでいるうちに鬱になってきます。カタリ派とは、11世紀から13世紀にかけてフランス南部アルビジョア地方の貴族、騎士、有力市民の社会に広まったキリスト教異端派です。教義の特徴は善悪二元論にあり、世界は悪魔デミウルゴスが創造したものとされます。真なる神の愛娘ソフィア(智慧)が人間を憐れんで蛇に変身して楽園の林檎の樹でイヴに智慧を授けるのです。キリスト教圏内の宗教に珍しく、輪廻転生も説いています。

 ところが、13世紀の始めから、十字軍遠征の度重なる失態を糊塗するためでしょうか。時の教皇インノケンティウス三世は、異端派撲滅のためいわゆるアルビジョア十字軍を差し向けます。南フランスの騎士たちはよく戦い、一度は十字軍を押し返しますが、たびかさなる破門戦略と謀略によって政治的軍事的に屈服し、信徒たちは火刑台の灰と消え、その後も二世紀わたって異端審問によって徹底的に弾圧されます。3世紀にわたる弾圧による犠牲者は200万人に達したと言います。吟遊詩人(トルバドゥール)の歌う宮廷恋愛詩に象徴される独自の文化と政治的独立性を誇った南フランス(オクシタニア)は、こうしてパリのフランス王国に併合されてしまうのです。
 私が鬱になると書いたのは、読み進めるにつれて、何だかカタリ派とは、迫害されるためにこの世に生まれたような気がしてきたから。じっさい、「序」の冒頭は、このような文章で始まっているのですーー
 「カタリ派の歴史と書くとは、ほとんど迫害の歴史を書くことに等しい。じっさい、カタリ派の人々が自分たちの信仰をまったき自由のうちに生きることができたのは、きわめて短い期間でしかなかった。彼らは自分たちの運命をみずから証言する時間をほとんど与えられなかったのである。(‥‥)十字軍、異端審問。カタリ派の歴史はこのふたつの局面に集約され、しかも両者は不可分の関係にある。要するに、カタリ派の人々は、みずからの不幸によって、最後にはみずからの灰によって、自分たちの歴史を語るほかなかったのだ。」

 私がカタリ派のことを知ったのは、学生の頃、ガーダムというイギリスの精神科医の書いた『霊の生まれ変わり』という本によってでした。この著者は火あぶりになる夢を見たことがきっかけで、前世は南フランスのカタリ派教徒だったことが分かります。しかも同じ火刑で死んだカタリ派教徒が何人も、現代に転生していることにも気がつくという、一見トンデモない本です。内容の是非はともかくとして、同じころ、20世紀前半に活躍したゴシック作家のブラックウッドの、黒猫の呪いみたいな題の怪奇小説を読んだことも覚えています。黒猫に導かれてカタリ派教徒が大量に火刑に処せられた南フランスの町に行く歴史学者の話ですが、コリン・ウィルソンによって筋が幼稚だと酷評されています。
 そして、大学院を出て最初の就職先として高知大学に赴任したところ、同じ学部の大先輩に、日本における当時のカタリ派研究の権威、渡邊昌美先生がいられたのです。といっても、私のような専門のまるっきり違う若僧など、ハナから相手にして貰えなかったのは残念ですが。いずれにしても、カタリ派とは何かと縁があったんだなと、最近、カタリ派の時代を背景とした歴史伝奇ファンタジーをウェブ上に書くようになって、つくづく思います。
 それは、涼宮ハルヒシリーズの二次創作として書き続けている「長門有希詩篇」の、「外伝 ソフィア姫と十字軍の伝説」というのです。リンクを貼っておきましたから、覗いてみてください。
 キャッチフレーズは「永遠の乙女と讃えられる神秘的な姫に、異端審問官率いる十字軍の軍勢が迫る」というのです。ソフィア姫は、南フランスの騎士を率いて十字軍と戦ったトゥールーズ伯レーモン七世の娘という設定ですが、容姿が、人形のような白い整った顔、黒い瞳、青みがかった短い髪ーーと、長門有希と似ているのです。
 長門有希の悲恋を描いた『涼宮ハルヒの消失』のエンディングソング「優しい忘却」で、長門(CV茅原実里)の声で「忘れないで、忘れないで」とくりかえす小節があります。カタリ派を題材とした作品をウェブ上に書くのも、灰になって歴史に埋もれたカタリ派の人々を忘れないため、ということに最近、あらためて気づいた次第です。