アグリッパ・ゆうきの読書日記4『メディアと知識人』(竹内 洋)日本の社会科学のいい加減さがわかる

『メディアと知識人 - 清水幾太郎の覇権と忘却』竹内 洋 (著) 中央公論新社 2012

【日本の社会科学のいい加減さがわかる】
 

傍系的知識人だった清水幾太郎を正系的知識人丸山真男と対比させて描いている。
 最初の方で印象に残ったのは、丸山の戦後すぐの講演「日本ファシズムの思想と運動」を分析しているくだりだ。この中で丸山は、戦前戦中のインテリを職業によって小学教員などの「疑似インテリもしくは亜インテリ」と大学生や教授などの「本来のインテリ」の階層に分け、ファシズムを煽ったのは疑似インテリ階層で本来のインテリは消極的だが抵抗した、と言う。けれどもここには、ドイツやイタリアでなされたような、ナチ(国民社会主義ドイツ労働者党)やファシストの支持者の階層職業を統計的に明らかにするような研究が一切なされた形跡がない。従ってこれは、「「本来のインテリ」というものはファシズムに協力する人々ではない。したがって「本来のインテリ」はファシズムに協力的でなかった」という循環論証にすぎないと、批判する。
 評者は70年安保に大学生として立ち会った世代だが、清水の『現代思想』を発刊当時面白く読んだぐらいで(何が書いてあったか全く覚えていないが)、丸山真男は今に至るまで読んだことがない。科学崇拝のくせにマルクス毛沢東の非科学を科学と取り違えたり、主観的願望を科学的状況分析と思い込んだりする日本の社会科学者の頭の悪さが当時から分かっていたからだ。ちなみに、「研究室では社会主義、街へ出れば資本主義、家に帰れば封建主義」という日本の社会科学者への当てこすりが昔からあるが、ベルリンの壁崩壊以後は、「戦前は軍国少年、戦後はマルクス青年、今は恍惚の人」と言うということを、歴史学専攻の先輩から聞いたことがある。評者は心理学専攻なので、日本の戦後左翼の心理学的解剖をいつかやってみたいと思っている。その手のものに、フランクフルト学派による、ナチスは「権威主義的パーソナリティ」だという実証的研究があるが、その後あまり取り上げられなくなったのは、この尺度を用いると左翼もまた権威主義的パーソナリティだという結果が出てしまうからだというのは笑える。
 なお、本書では清水幾太郎の論壇からの忘却は、2度にわたる転向のせいだという。もしそれが本当なら、日本の論壇・マスコミはますます頭が悪すぎることになる。現実を見て理論を修正するのは科学の基本ではないか。清水はそれまでの自分の左翼的社会理論が現実によって反証されるのを見て、理論を修正したのであろう。それを節操がないなどと非難するのは、信心家の態度であっても科学者の態度ではない。むしろ本書によって、日本の社会科学者の中では例外的に清水が近代的な科学者精神の持ち主であることを確認できた。(2013年1月17日)