アグリッパ・ゆうきの読書日記5『フーコー入門』フーコーの思想も生涯もそして本書も無益な受難ではないのか

フーコーの思想も生涯もそして本書も無益な受難ではないのか】

 『フーコー入門』中山 元  (著) (ちくま新書) 1996

フーコーは初期の精神医学批判と晩期の性の歴史しか知らなかったので、全体像を知るのに手頃だと思い、読んでみた。分かりやすくしかもレベルを落とさず全体像を提示する作者の手腕はなかなかのものと見た。

 けれども、フーコーの知的営為を最初からたたかいの連続として捉え、晩年には「キリスト教の司牧者権力に、近代の福祉国家の権力の起源をみていた」(p.198)とし、「フーコーはこの闘いは帝国主義に対する闘いやファシズムに対する闘いとは質のことなるものであり、非常に困難なものであることを認めている。/これと闘う必要があるのかーーというのは当然の疑問だろう」(p.187)と自問するくだりまで読んできて、なんだか、フーコーの思想も生涯も(そして本書もまた)無益な受難であるような、脱力感に襲われてしまった。

 無益な受難とは、サルトルの「人生とは無益な受難である」という言葉に由来する。当のサルトルの死が報じられた時、吉本隆明が、サルトルの生涯こそ無益な受難だったではないか、という言葉を新聞に寄せていたことが思い出されたのだ。吉本の真意は、マルクス主義が大衆に敵対して大衆に見放されつつあったちょうどその時期にマルクス主義に転向するという、サルトルの知識人的なエリート意識、時代勘の悪さを、衝いたものに相違ない。フーコーについても全く同型的な構図が見られる。そもそも福祉国家とは一握りの「権力者」(笑)の陰謀なのではない。今夜も、癲癇を隠して運転したクレーン車の暴走事故で子供を失った6組の親たちが大量の署名を集めて運動をしたお蔭で、病気を隠して免許を取った場合の罰則の強化と医師の任意通報制度の新設という道路交通法の改正に漕ぎ着けられたというニュースが報じられていた。親たちは涙を流して喜んでいた。フーコー流に言えばこれも「管理社会の強化」なのだが、このプロセスを見ても分かるように、そして評者もまたマイノリティの人権擁護の運動にタッチした経験から分かるのだが、福祉社会の担い手とは、まさにこの6組の親たちのような、弱者、被害者、マイノリティなのだ。

 もちろん福祉社会への違和感は、ゲイというフーコーのスタンスから言って分かりすぎるほど分かる。だが、それにしてはゲイを表面に押し出すのが遅すぎだ。また、巨悪に立ち向かうというニュアンスの「闘う」という発想そのものも、巨悪と闘っていたつもりでいたら自分自身が巨悪だったというのが現代における「反権力」の運命である以上、何とかしなければならない。最晩年には何とかしようという試みが見られるようだが、これも遅すぎた。私が思うには、ゲイのような絶対少数派が「最大多数の最大幸福」を目指す社会に対するには、「闘う」のではなく「逃げる」ことを戦法にせざるをえないだろう。

 ともあれ、今となっては反面教師として以外にフーコーを読む値打ちはないのかもしれない。

(2013年6月9日)