研究日誌(2021/3/9):ミシェル・アンリによるフッサール他者論検討1

‥‥それは現前化されず、ただ表-象[再-現前化]され、付帯現前化されるだけである。それが他人なのである。まさしくこれが、知覚的経験と他人についての経験との有田にある差異である。第一の経験においては、対象の裏面はいつでも表面になりうる。第二の経験においては、わたしの帰属圏域のうちで対象として現れる他人の身体の裏面、つまりこの身体-有機体の実的主観性は、表面とはなりえない。(3)フッサールが気付き、直面している困難の動機とはこのようなものである。つまり、「転移された意味が存在妥当性をもつものとして、あそこの物体に存在する心的諸規定の内容として受け入れられるのに対し、他方でその心的諸規定は、本源的圏域の(‥‥)元的領分においてけっしてそれ自身として自らを示すことができないというのは、どうしてだろうか」(第52節)。(ミッシェル・アンリ『実質的現象学』pp/186-187)