どこへいった「罪を憎んで人を憎まず」の精神:池袋暴走死傷事件裁判に思う

先日(9/2)に判決が出た池袋暴走死傷事件は、事件そのものよりそれへの反応の方が、今までになく後味の悪いものになってしまっている。

 遺族の気持ちは分かるとしても、本来やるべきことは二度とこのような事件が繰り返されないよう制度的改革を働きかけることのはずだ。

 その方が絶対、亡くなった家族にも喜んでもらえるに違いないのだから。

 20年以上前のことになるが、山口県光市の母子殺害事件というのがあって、遺族がテレビ出演していて、(犯人が)出所してきたら殺します、と物騒なことを言っていた。

 その遺族にしても少なくとも犯罪被害者救済制度の推進には大いに功績があった。

 ところが今回の事件では、ひたすら被告への復讐欲だけが目立ってしまう。これが報道の仕方から受ける誤解ならいいのだが。

 被告が謝罪や反省の姿勢を見せないのがヘイトを買っている理由だと考える人も多いが、元々日本計量学会会長も歴任した理系研究者であって、私も理系大学に長年勤めていた経験から言うと、理系人には自分で理に合わないと思ったことには絶対妥協しないというところがある。

 被告も、確かにブレーキを踏んだのだから車が悪いと信じ込んでいるのだろう。これが政治家や芸能人なら一も二もなく平謝りしている筈だ。

 控訴しないで欲しいと遺族側はいっているが、ブレーキを踏んだのだから車が悪いと信じている以上、裁判という基本的人権に属する公開の場で決着をつける他ないではないか。

 そもそも、普段は加害者のプライヴァシー暴きに余念のないマスコミが、今回は理系の研究者のポストでもある元通産省工業技術院院長という正式な肩書を付けず、通産省幹部としか言わないところにも、「上級国民」という醜悪なヘイトイメージを固定させようという悪意を感じないでいられない。

 一方でパラリンピック障がい者のスポーツを賛美する同じテレビ画面で、次には杖をついた、認知症の気もある90歳の老人を寄ってたかって袋叩きにする。こんな醜悪な光景を流すのはいいかげんやめにしてほしいものだ。

 これでは、かつてラフカディオ・ハーンが明治大正の日本人に見出して賛美した、罪を憎んで人を憎まずの精神も地を払ったとしか言いようがない。

 大学で教えていた頃、卒業パーティの席で学生に、聖書のエピソードを引いて「たとえ寄ってたかって石を投げられようと、決して投げる側になってはならない」と語ったことがある。このところの日本は、マスコミと言いSNSといい、一億人がこぞって石を投げる側になろうと狂奔ているとしか見えない。