映画『リトル・ガール』を見る

■昨日(11/25)は、新宿まで足を伸ばして武蔵野館で『リトル・ガール』(セバスチャン・リフシッツ監督、フランス、2020)を見た。

コロナ騒ぎが始まって以来、新宿は乗換ポイントとして通るだけだったので、街を歩いたのは2年ぶりになるだろうか。平日の昼前なのに結構な人出だった。

『リトル・ガール』は、原題 petite fille をそのまま英訳した語。「女の子」というのが一番ぴったりな和訳だ。主演のサシャは男の子として生まれた。でも心は女の子。どうしても女の子になりたい。7歳でもうじき小学校2年になるというサシャの願いを母親はじめ家族みんなで応援して、パリに行って専門の児童精神科医にも会い、性別違和という診断を貰い、学校側にも女の子として認めさせようと静かに闘うのです。でも、ずっと通っていたバレエ教室では、女性として認めないと言われて母子共々追い出されたりして。とてもつらい経験なのに周囲に心配をかけまいとじっと耐える表情に、見ている方が涙が出てきます。

 夜、ベッドで目を瞑っても、サシャの愛らしくけなげな横顔がまざまざと浮かび上がるほどに、感銘を受けました。フランス映画らしく、悲しいまでに繊細で美しい、フィナーレ近くから流れたドビッシーの「夢」がピッタリ来る珠玉作です。これでドキュメンタリーだというのだから驚き。

 それにしてもMtF性別違和を取り巻く一般社会の反応は、60年前の日本とたいして変わっていないなと、カルーセル麻紀をモデルとした小説『緋の河』(桜木紫乃、2019)を思い浮かべて比べた感想です。違いといえば児童精神科医による診断・治療の機会ぐらいか。この小説については、オンラインジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』2号に「美女になるという運命の呼び声を聞いた男の子の物語」と題した書評を載せておいたので、参考までに。

 カルーセル麻紀の時代には水商売か芸能界入りぐらいしか選択肢がなかったのに対して、サシャは普通の女性として生きようとしている、そこが進歩といえばいえるかな。また、第二次性徴発現前に抗ホルモン療法を始めるかどうか決めなければならないと、女性の児童精神科医に言われるところが興味深かったです。
 たとえば、前立腺ガンの治療に使われる抗アドレナリン薬のビカルタミドみたいに、毎日内服して細胞のアドレナリンレセプターに蓋をする作用の薬でしょうか。女性ホルモンの方は男の子の体でも分泌が続くので、アドレナリンの作用が消えたぶんだけ女性的性徴が発現するはずです。ちょうど、精巣性女性化症のように、染色体はXY型でも外見は完璧な女性になる可能性があります。ただし不妊なのはどうしようもないのですが。

 ちなみにあれからドビッシーの「夢」を繰り返し繰り返し聞いています。これからも聞くたびにこの映画のことを思い出すでしょう。サシャの幸せを祈らずにはいられません。