研究日誌(2022/2/26)間身体性は間主観性への通路になりうるか?

■間身体性は超越論的間主観性への通路になるか?

以前の記事(2021/5/1)の続きになるが。この記事で紹介した坂本秀夫氏の著書『他者としての身体』(ヴィツーソリューション、2009)を読んで、続きを書く。

「他者と私とは、いわば同じ一つの間身体性の器官なのだ(nous sommes comme les elements d'une seule intercorporeite)」(SS,213/(2)18)*1。その際、メルロ=ポンティがその思索の端緒とする一契機は手の二重感覚であった。手の二重感覚における感覚(sentir)と感覚内容(senti)の二重性が私の身体と他者の身体の間にも成立するという論理が、間身体性を基礎づけているのである。この論理は、しかし、すでに自己と他者が成立していることを前提しているのではないだろうか。」(p.33)

 *1 引用されているメルロー・ポンティの文は、『精選 シーニュ』(広瀬浩司・編訳、ちくま学芸文庫、2020)によると、「他人と私とは唯一の間身体性(intercorporéité)の二つの器官であるかのようだ。」(pp.256-257)となっている。

 同感である。私の身体と他者の身体の間には、そもそも二重感覚は成立しない。私が自分の右手で左手をさわる。右手が感覚し、左手が感覚される。逆転もある。ところが、私の右手が他者の左手にさわっても、感覚されるという感覚が生じるわけではない。欠落が、他者の感覚にはどうしても到達できないというもどかしさが、あるだけなのだ。自己の両手の二重感覚は、自他の二重感覚のモデルにはなりえない。

 坂本氏はここで、フッサール時間論に目を向ける。(第二章 身体と時間)
「従って、過去把持における二重の志向性である縦の志向性と横の志向性の区別が今や
より明瞭になる。前者は受動的志向性として働く「受動的総合」の過去把持であり、これが後者、すなわち、触発された自我の能動的志向性による意識内容の過去把持(想起)の基盤をなしているのである。この過去把持の二重の志向性によって時間が構成されているとすれば、自我が関与しない受動的志向性だけでは時間は未だ構成されず、従って、流れることはない。そこでは何が生じているのだろうか。」(p.48)という前半部の結論は明快であってよく分かった。が、この段落の次に新生児の体験世界の考察に移る際、今までの超越論的考察から、経験的仮説形成へと飛躍していると感じる。

 この印象は、次の、「第二節 共感覚自閉症ーー超越論的概念の経験的検証」に移って益々強められる。
 そもそも超越論的概念は経験的検証も反証もできるはずがない。そのような検証が可能ならば超越論的概念ではなく経験的仮説というべきだろう)。超越論的概念は、本質観取の過程にかけることができるだけである。ここで本質観取とは、拙著『明日からネットで始める現象学』(新曜社、2021)では、「現象学的還元によって得られた認識が、いつどこでも通用するという意味で普遍妥当性があるか否かの確認」と定式化されている。

 

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