研究日誌(2022/3/8)精神医療におけるごまかしの三位一体:「統合失調症は治る」「普通の病気」「脳の病気」

■精神医療・福祉におけるごまかしの三位一体:統合失調症は「治ります」「普通の病気です」「脳の病気です」

・先ごろ、精神科医も多く参加しているclosedな研究会で研究発表をする機会があった。その発表内容は公共的かつアカデミックな場で論文にするにはハードルが高いので、とりあえずその考察の部分から、読者と共有しても差し支えないと思われる部分を抜粋して公開する(伏字○○にした箇所もあるが)。タイトルに掲げたようなことがテーマになっている部分である。

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<承前>そして,○○○○として距離を置く立場にある筆者としては,このような取り返しのつかない事態を招くにいたった統合失調症をめぐる患者と家族と精神医療の縺れた構造の一端が,いまや,『手記』を読みつつ書くという作業を通じ朧げに見えてきた。それは一言でいえば,患者家族の側の「教養」の欠如と表裏一体となった精神医療への過信の構造である(専門化の進行する社会にあって専門外の「知識」がないのは当たり前であり,必要なことは有事に当たっての知識を得る方法と意欲であり,これを「教養」と称したい)。この構造は,半世紀後の現在に至っても福祉界をも巻き込んで形を変えて存続していると思われる。この過信の構造を精神医療・福祉の側に見て敢えて挑発的にいえば,「ごまかしの構造」となる。この構造に最初に気づいたのは,何度か言及してきたように,「治ります」といフレーズをめぐる精神医療と患者家族の側の意味の齟齬であった。本稿の最後を借りて,まず「治ります」のフレーズの問題性を,そこからさらに「統合失調症は普通の病気です」「脳の病気です」という,昨今精神医療や福祉の場でよく聞くフレーズの問題性に触れることにしよう。

1)「統合失調症は治ります」―このフレーズ自体は,不治の病というスティグマに抵抗する意図があるし,茫然自失した家族を励ますという善意も疑い得ない。にもかかわらずこれをごまかしとして槍玉に挙げるのは,これまで何度か触れてきた医療側と家族の側の意味の齟齬が重大な結果をもたらすゆえである。繰り返すが医療側の「治る」とは,退院して家で日常生活ができ,再発もしない状態を言うのである(ただし再発防止のため薬は一生飲み続けねばならない)。他方,家族の側では「治る」の語で,元通りになることを期待する。‥‥だから家でゴロゴロしていると叱咤激励して再発のきっかけを作ってしまう(そもそも「再発」とは誤解の元になる表現であり,その点,「再燃」(村井,2019)は,灰に埋もれて何かが燻ったまま,きっかけがあれば燃え上がるという状態を表現してより適切と思われる)。

 また,最近注目されるようになった「リカバリー」は(レーガン,2005)「治る」の代わりとしてより妥当と思われるが,すでにふれたようにカタカナ英語が家族の側の理解を妨げる恐れがある(「パーソナル・リカバリー」に至っては最悪である!)医療側の説明としては「治りますか」の問いへの答えとしては,(心ある医療者の方々は各自工夫されていると思うが)「完治は難しいでしょうがそれなりに回復して意義のある人生を送ることは可能です」といったところだろうか。そしてここが最も重要なところであるが,このような説明を受け入れることは,患者と家族の側の価値観の転換を必要とする場合が出てくるということである。すでに述べた,当事者の再発を知ったころの筆者の正直な思いを繰り返すならば,「人並みの人生をあきらめて,もっと気楽に生きる」となるだろうか。「治ります」などと言っていては,このような生き方,価値観の転換の機会が失われてしまうのではないか。

2)「統合失調症は普通の病気です」―これも最近,精神医療・福祉の領域でよく耳にするフレーズである。スティグマに抗するというその善意は疑い得ない。にもかかわらずここにもやはり重大な陥穽がひそんでいるのである。たとえば『手記』(兄弟姉妹の会、2006)にも次のような疑問の声がある。

「この精神障害という病は,世間の人たちが差別しないで,普通の病気と同じだと理解して,心からそう思うと言われても,私は信じることができません。ほかの障害に対する気持ちの動きとはまったく違うと思うからです。」。「「統合失調症は百人に一人がかかる病気です。身近な病気なのです。決して恐ろしい病気ではないのです」―家族会などでよく耳にする話ですが,本当にだれでもなりえる,よくある病気だったら,もっと,医療も,福祉も,進歩していていいのではと思うのです。「よくある病気」だとしても,「本人だけでなく周りも病んでしまうほど,たいへんな病気」であることも,きちんと話してほしいと思います。」。

 筆者自身も,○○の病歴を,そして症状の変転と医療側の対応に翻弄されたまま逝ったその両親の無念を想うと,普通の病気などとは空言にしか聞こえない。そもそも「普通の病気」という医療・福祉側の説明には満足のいく根拠が示されるのを見たことがない(村井の「統合失調症は普通の人が患う普通の病気である」(2020)という主張にいたる考察にしても,臨床的印象の域を出ない)。何が普通かの問題は立ち入ると煩瑣な議論になってしまうので,ここではより直観的に分かりやすい方法を取ろう。すなわち,「普通でない病気」と「普通の病気」の例を一つずつ挙げて統合失調症と比較するのである。ここで普通でない病気として挙げるのは70年前のガンであり,普通の病気としては今日のガンを挙げよう。70年間の医療の進歩で普通でない病気が普通の病気になった。この歩みは統合失調症にとっても示唆的ではないだろうか。

 70年前,黒澤明監督の『生きる』という映画が公開された。実直な市役所の職員だった中年の主人公は,医師には直接告知されないまま(当時は非告知が普通だった),自分が胃ガンであり半年のいのちであることを察知する。これまでの自分の人生とは何だったかを顧みて,まず快楽に溺れようとしたが平凡な市職員にできることはたかが知れている。そのうち,児童公園新設の住民陳情が窓口でたらい回しにされていることを,しかも自分自身がたらい回しの元凶の一人であったことに気づき,あらゆる妨害をはねのけて計画の実現に尽力する。そして半年後のある夜更け,できたばかりの児童公園のブランコに揺られながら力尽きて息を引き取るのである。

 この感動的な物語には,当時「よくある病気」だったにもかかわらずガンを「特別な病気」にしていた全てが込められている。本人告知がされないこと。病気のメカニズムが分からず治療法も限られていたこと。そのため根拠のない様々な民間療法が,ガンを取り巻く神秘性のオーラさながら繁茂していたこと。そして物語の中心にあるのは,患者の生き方の,人生観の転換であった。それから70年。ガン医療は飛躍的に発展した。メカニズムがほぼ解明され,治療法も日進月歩である。本人告知が当たり前になり,「ついこの前,肺に転移したガンを手術しました」といった日常会話が身辺にも飛び交うようになった。筆者も数年前からガン治療中の身となって実感したのは,いつの間にかガンが普通の病気になったということであった。なによりも治療中だからといってQOLがさして下がるわけではなく,筆者の年齢では統計的に余命がさして短くなるわけでもない。生き方の転換など必要ないのであった。

 特別な病気から普通の病気へのガン医療の70年の道程のどこに,統合失調症を対応付けるのがよいかというと,どう見ても現在よりは70年前に近い方になるのではないだろうか。メカニズムが分からず治療法が限られていること。生き方の転換が必要とされる場合があること。「ふつうの病気」というフレーズの陥穽は,何よりも,「普通」を強調することで患者家族が生き方,人生観の転換の機会を奪われてしまうところにあろう。(「普通の病気」とは「社会に危害を与えるような病気ではない」という意味ではないかと言われるかもしれない。これに対しては次の文章を引いておこう。「精神障がい者による暴力は,外で見ず知らずの他人に向かうことは稀で,多くは家庭の中で家族に向かう。‥‥暴力の問題は,家族への暴力に焦点が当てられてしかるべきだが,家族への暴力に関心が払われることはなかった‥‥それは,社会防衛ばかりに注意を払っていた社会の問題であり,精神障がい者への偏見を助長させたくないために家族や関係者が暴力の事実に蓋をしてきた問題でもある。家族への暴力の発生率を示した研究は,世界で7つしかない‥‥。私たちの研究がその中の一本だ」(影山,2017)。ちなみに家族の60%が暴力を経験しているという)。

3)「統合失調症は脳の病気です」―これも近年,他の二つのフレーズと並んでよく聞く言葉である。脳の病気である以上,他の身体病とかわりない「普通の病気」に違いないし,身体病と同様に生物医学の進歩によって「治る」ところまで来ている,というように,三つのフレーズはいわば三位一体をなしているのである。にもかかわらず,「脳の病気」とはそれだけでは何も意味してはいないといわざるを得ない。そもそも,「医学の各分野は,特定の臓器とその機能を扱うが,精神医学の場合,臓器=脳であり,機能=こころである」(笠井,2013)というように,医学界のいわば標準的見解が「心は脳の機能」としている以上,論理上すべての心の病気は脳の病気となり,ゆえに統合失調症も脳の病気であることになってしまおう。もし,脳の病気ということに何らか実質的な意味を含めるとすれば,それは,梅毒性進行麻痺やアルツハイマー病のように生物学的基盤が明らかになっていなければならない筈である。ところが一方で,次のような記述を標準的な教科書の中に見る。

「この統合失調症は現時点ではあくまでその原因,症状,治療,経過などが医学的に解明されていないものの,その生物学的な基礎がいずれ明らかになることが想定されている症候群の総称であり,それが医学的に解明された時点でXX病という新たな疾患概念ができる」。「内因性精神病である統合失調症の原因を生物学的に解明すると解明した時点でそれは外因性となり,統合失調症でなくなるという一見パラドックスが生じることを述べたが,これは医学の進歩とともに起こってきている」(橋本,2013)。

 これで見る限り,「脳の病気」とは統合失調症研究業界内部の目標もしくは旗印であって,一般社会に向けて事実として語れるような確立された知識ではないのである。さらに,脳の病気という言説の問題点として、第一に、脳の病気という言説は脱スティグマ化に役立つどころか逆効果になることもある。「ドイツでは、統合失調症と診断された患者に近づきたくないという人が1990年から2001年の間に増加した。/この原因の解明を望む研究者は、衝撃的な関連性を見出した。精神疾患に関して生物医学的で遺伝的な説明を受け入れている人は、患者との接触を望まず、彼らを危険で予測不能だとみなす率が一番高いことがわかったのだ。この不幸な因果関係は、世界中の多数の研究で明らかになっている。」(ウォッターズ、2010)。またリカバリーの提唱者であるレーガン(2005)も「精神の病に伴う偏見を減らす目的で,専門家への教育や市民への啓発教育が行われ,そこでは統合失調症が遺伝にかかわる側面を持ち,脳の生物学的な失調による病気であり,誰の責任でもないことを注意深く教えます。残念なことに,このメッセージは,治療や病気の克服にあたっては誰もが無力なのだという意味にとられがちです」と述べている。ここにも、誰にでも身近な「心」でなく専門性の壁の高そうな「脳」に病気の座を求めることが、専門家以外の人々を遠ざける結果になるという弊害を見て取ることができる。

 第2の問題点は,オルタナティヴな疾病観をあらかじめ封じてしまうということがある。筆者の体験したエピソードを引き合いに出すならば,かつて勤務していた大学のフランス文学科に採用されたばかりの若手の男性講師が,海外旅行から帰国後に「再燃」し,‥‥学部をあげて大騒ぎになったあげく,病院へ運ばれていった。ところがこの騒ぎについて仏文科の学生たちが何と言っていたかというと,「さすがだ」と男性講師を称賛したというのである。そして,その後はさしたる再燃もなく無事に定年まで勤めあげたのだった。筆者が思ったのは,これが大学以外だったら,否,大学でも仏文学科以外だったら、患者は単に排除されただけだったろうということであった。日本におけるフランス文学の受容には,ジェラール・ドゥ・ネルヴァル‥‥に象徴される,ロマンティックな統合失調症観の伝統があった。それがスティグマ化への防波堤となり,男性講師のそれ以上の再燃を防いだのではないかと思われたのである。

4)結論

<以下略>

引用文献(抄)

橋本亮太(2013)病因と病態モデル.日本統合失調症学会(監修),統合失調症(pp.103-114).岩崎学術出版社

影山正子(2017)精神障がい者の家族への暴力というSOS――家族・支援者のためのガイドブック.明石書店

笠井清登(2013)精神医学とは何か.中山剛史・信原幸弘(編)精神医学と哲学の出会い(pp.30-35).玉川大学出版部.

兄妹姉妹の会(編)(2005)精神障害のきょうだいがいます.心願社.

村井俊哉(2019)統合失調症岩波書店岩波新書).

村井俊哉(2020)統合失調症を改めて考える.こころの科学210(3月号),44-49.

レーガン,M.(2005)ビレッジから学ぶリカバリーへの途――精神の病から立ち直ることを支援する.前田ケイ(監訳),金剛出版(Ragins, M.(2002). A Road to Recovery. Mental Health America of Los Angeles.)

ウォッターズ,E.(2013)クレイジー・ライク・アメリカーー心の病はいかに輸出されたか(阿部宏美,訳).(Watters, E. (2010) Crazy like us: The globalization of the American psyche. NY: sterling Lord Literistic, Inc.)

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