研究日誌(2022/3/19)フッサール他者論、リシールの空想身体論、ファンタシアを経由して間身体性へ?

■「「間身体性」の近さと隔たりー間身体性の倫理学の構想(2)ー」(坂本秀夫著、跡見学園女子大学文学部紀要、第54号:125-144、2019)を読むの巻(2)

 二度目に読んで、何となく分かってきた。その間、参照文献に挙がっていた、Richir, M. (2006). "Leiblichkeit et phantasia", in Psychotherapie phenomenologique (pp. 35-45)と、坂本秀夫『他者としての身体』(ブイツーソリューション、2009)を読んだためもあるが。

 以下に、必要部分を抜粋して置く。

フッサールは「知覚的空想(perzeptive Phantasie)」という概念を導入する(ⅩⅩⅢ, Text Nr.18)。これは矛盾した概念ではない。この概念における「知覚」とは像物体のWahrnehmungではなく、像客体のPerzeptionであり、後者は実在を措定しない、いわば中和化された知覚だからである。リシールによれば‥‥」(p.134)

「他者身体の構成は、像意識とは別の準現在化作用である「知覚的空想」の働きにその可能性が求められねばならない」(ibid)。

「原所与性としてのファントムを基盤として空想が作動し、空想作用によって想像力が起動する。ところが、ひとたび起動した想像力は空想作用が意味生成の次元で垣間見た形象化しえぬものをおのれの直観対象として形象化するために、空想を「知覚的外見(apparence perceptive)」に変様せざるをえない。すなわち、想像力は自ら疑似措定した対象の「像(image)」を横断して志向的に思念するのだが、この「像」はもともとも純粋空想の「原-像」ではなく、志向的に思念された対象の像なのである。これが空想から想像への「建築術的位相転換(la transposition architectonique)」(ibid., 40)の機制である。この位相転換を逆に辿れば、知覚的空想が可能となる。知覚的空想の本質は現実の知覚(Wahrnehmung)を空想に(想像ではない)変様することにあるからだ。」(p.136)

→この段落、再読してみて何となく分かってきた。

フッサールは知覚的空想の事例として、『リチャード三世』を挙げている(ⅩⅩⅢ,515)。」(ibid.)

「舞台上とはいえ、登場人物の内面性は直観において形象化不可能であることは、現実における他者との出会いと変わらない。‥‥私が他者の生き生きした眼差しの「核心部」に「知覚する」もの、それは他者の形象化不可能な知覚的空想だからである。‥‥知覚的空想において「実在的なるものと虚構的なるものの彼方(あるいは手前)に」おいて知覚(Perzeption)されている何ものか、それは「根源的に形象化不可能なもの」、他者の「生き生きした身体性」に他ならない。」(p.137)

 また、「おわりに」から、結論部分を抜粋する。

「知覚(Wahrnehmung)は他者の身体を像物体(Korper)として、像意識はそれを像客体・像主題として統握する 。像意識において機能しているのは志向的想像力であり、その働きは対象を「像」化することにある。それゆえ像意識において現出する他者の物体身体(Korperleib)には、生き生きした身体性 (Leiblichkeit)が現れることはない。身体 (Leib)と物体(Korper)の差異は、この身体に宿る生にこそ求められるのだが、この生は形象化不可能だからである。形象化不可能なものの次元、それは意味発生の原初的領域であり、そこではじめて現象が現象化する意識の最古層の次元に属する。知覚的空想によってこの次元への接近の可能性が開かれる。ただし、空想はつねに「像」に位相転換される危険に晒されているのだが。(p.138)

→これで見ると、私のように他者の実在を理解できないということになるのは、知覚的空想をむりに像に転換しようとして、論理的に不可能であることに気づくから、ということになる。普通の人は、論理的不可能性に気づくことなく、「転換」してしまっているから、ということになろうか。