研究日誌(2022/5/31~)可能世界論で途切れ途切れに思うこと

■『ディヴィッド・ルイスの哲学』(野上志学青土社、2020)を読み、人文死生学の展開にとって役に立ちそうな箇所を書き留めておく(正確な引用ではないが)。

p.52 対応者理論による事象的可能性の分析。

 xが可能的にFである(◇Fx)のは、ある世界wが存在し、wにおけるxの対応者がFであるときであり、そのときに限る。(ここでwにおけるxの対応者とは、wに含まれるもののうち、ある重要な点でxに類似しているものである。)

 ⇒(コメント記号;以下略)「ある重要な点で」を「私がwにおけるA(現実世界では他者の一人)であること」としてみよう。言いかえれば、x=渡辺恒夫だが、wにおいてはx=not渡辺恒夫である。それ以外の点ではwは現実世界と同一である、とするのだ。

p.62-63 「‥‥ルイスの議論によれば、現実世界においてはすべての時点において緑の人格は緑の身体に宿っており、人格と身体の同一性テーゼによって、緑の人格と緑の身体は同一である。しかし、ある世界wが存在し、wにおいてある時点tで緑と直子の人格が入れ替わっているので、時点tでは緑の人格的対応者と緑の身体的対応者は同一ではない。それゆえ、緑の人格と緑の身体の同一性は必然的ではない。それゆえ、現実世界ではそれらが同一であるにもかかわらず、必然的にそれらが同一ということはない。こうして、緑の人格と緑の身体は同一性の必然性テーゼの反例となる[32]。

[32]さらに、同一性の必然性を否定し、偶然的同一性を支持する古典的な例としては、Gibbard1975の「ランプルとゴリアテの例」がある。また、OPW第4章第5節にも類似の議論が見出される。Nooman2013第4章も参照(p.271)。

p.226

  私が誰か別の人間だったかもしれないという可能性について考えてみよう。ここに私がいる。そこに哀れなフレッドがいる。〔‥‥〕私はいま、私が哀れなフレッド であるという可能性について考えており、それが実現されていないことを喜んでいる。〔‥‥〕この世界と全く同じようなある世界において自分がフレッドである可能世界に考えているのである。(OPW,p.231,邦訳,p.263)

→いいところまで来ている! 

ところが「問題の可能性は、私にとっての可能性であって、世界にとっての可能性ではないのである。」(265ページ)と、奇妙なことを言い出す。それは、「すべての可能個体が可能世界であるわけではない」(262ページ)だからだそうだ。

が、それなら可能世界を想定する意義もなくなってしまうだろうに!