研究日誌(2022/6/15)マッキンタイアの物語論的人格同一性(personal identity)について

■A.マッキンタイア『美徳なき時代』(篠崎栄訳、みすず書房、1993(MacIntyre, A. After Virtue. University of Notre Dame Press, 1984))より引用する。

 「‥‥デレク・パーフィットと他の論者は最近、厳密な同一性の規準と人格性の心理的連続性との間の対照に注意を喚起してきた。前者は〈全てか無か〉の事柄であり‥‥演じられる物語での登場人物としての人間にとって決定的なことは、心理的連続性の材料しか所有していないのに、厳密な同一性の負託に応える能力を必要とするという点である。‥‥そうした〈私〉の同一性ー-またはその欠如ー-を自己の心理的連続性あるいは不連続性の上に基礎づけることは不可能である。」(p.265-266)

「‥‥歴史の中の登場人物たち(キャラクターズ)も人格(パーソン)の集合ではなく、〔逆に〕〈人格〉という概念が、歴史から抽象された、〔もともとは〕〈登場人物〉という概念なのである。」(p.266)

「‥‥人格の同一性とは、物語の統一性が要求する登場人物の統一性によって前提されている同一性(アデンティティ)に他ならない。」(p.267)

「〈人格の同一性〉という観念を、〈物語〉〈理解可能性〉〈申し開き能力〉という観念から独立に切り離して解明しようとしても、その試みはすべて失敗せざるをえないということだ。実際、すべて失敗してきたように。」(p.268)

 この最後の引用は分かりにくいので、日本語の論文から引用すると(「人格の同一性に対するマッキンタイアの物語論的アプローチについて」(石毛弓、倫理学研究/43 巻 136-147,2013)、

「マッキンタイアは、人格の同一性に関連するものとして「物語(narrative)」「理解可能性(intelligibility)」「申し開き能力(accountability)」の三つのキーワードを挙げる。‥‥この物語は諸徳の実践という目的をもつとされるから、物語の主体はその目的に向かう運動として自己の行為の意味や意義を理解することが可能だとされる。さらにその主体は、自分の物語について他者にその意味や意義を説明することができる。物語の主体であるということは、その物語全体や各エピソードについての他者からの「なぜ」に対して「なぜなら」と答えることができ、行為における「だれが」との問いに「自分が」と責任を負うことができるということなのだ。」(p.140)

「‥‥主体によるエピソードの関連づけがなされうるかぎり、その主体が異なる時間においてどのような変容を被ろうとも、自己の物語の登場人物としての同一性は保たれる。経験記憶の有無やその程度ではなく、行為に対する物語・理解可能性・説明責任が人格の同一性の軸とされているのである。」(p.140)

⇒ここでどうしても、転生の場合はどうか?と問いたくなってきてしまう。