アグリッパ・ゆうの読書日記(2022/7/22):『彼は早稲田で死んだ:大学構内リンチ殺人事件の永遠』を読んで思う

■最近、『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(樋田毅、文芸春秋、2021)を読みました。革マル派に殺害された文学部の川口君の一年下の後輩でその後朝日新聞記者になった著者が、半世紀後に当時の状況を生々しく描き出し、当時の革マル派幹部を尋ね歩いたりしています。

この著者の周囲ではリンチにあい登校できず退学した学生多数だったようで、学問の自由以前の状況です。

半世紀前は京大某学部だって似たような状況だったのです(革マルではなく中核とブントが中心でした)。じっさい私も、乱闘に巻き込まれて怪我をしたりしています。また、オンラインジャーナル こころの科学とエピステモロジー のミショット翻訳の「解題」で、「いろんな事情で訳者はこの実験を続けることができず、修士論文も未公刊のままになってしまったが」(p.44)と書きましたが、いろんな事情とは全共闘派に研究棟を封鎖されたため実験ができなくなったことを指します。ところが全共闘派の学生の中にはバリケートの内側で実験をやって論文を書いた者がいました(その後どこかの大学で教授になったと聞いていますがコイツだけは許せません)。
このような経験があると、「般化の法則」によって嫌悪の対象が全共闘派だけでなくマルクス主義的左翼全般に及んでしまいます。けれど、寛容なリベラル社会を目指す者として、そのような感情をどこかで引きずっているのはまずいのではないでしょうか。上述の樋口氏も、非寛容に対していかに寛容でありうるかの問いを投げかけています。
そこで構想しているのが、現象学歴史学の試みとしての学問状況の現代史です。『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』(池上彰佐藤優)も読みましたが、著者らが当事者目線ではないので掘り下げが足りません。こちらで目論むのは、色んな立場(現象学でいう「地平」)での体験テクストの収集に基づくものです。
 等などと言っても、私には残り時間が少ないし、そもそも発表場所も簡単には見つかりそうもないので、だれか後から来る人に託せればいいです。