研究日誌(2022/9/29)可能世界再論、必然的同一性と偶然的同一性

■以前、本ブログ「研究日誌(2022/5/23~)『ディヴィッド・ルイスの哲学』(野上志学青土社、2020)を読み‥‥」に、この本から以下を抜粋した。
----------------------------------

[32]さらに、同一性の必然性を否定し、偶然的同一性を支持する古典的な例としては、Gibbard1975の「ランプルとゴリアテの例」がある。また、OPW第4章第5節にも類似の議論が見出される。Nooman2013第4章も参照(p.271)。
----------------------------
 その後、Gibbard1975を一読。「ランプルとゴリアテの例」とは、ゴリアテの彫像と材料の粘土塊(lump1)は、あらゆる点で同一だが、A=Aのような必然的(necessary)同一性でなく偶然的 (contingent)同一性というべきである、というもの。その理由は、まったく同じ粘土塊(lump1)を用いてゴリアテではなくダビデ(英語読みディヴィッド<笑)が作られた世界を想定することは可能だから、ということだった。ついでだが野上が「ランプル」と訳している"lump1"は、「粘土塊1」と訳すべきではないか?"l"か "1"か、原文の字が小さくて判別し難いのだが。

 これは、ルイスが挙げている「私とフレッド」の例とは意味が違うが、偶然的同一性の例であることは間違いない。ちなみにルイスの例とはーー
--------------------------
‥‥私が誰か別の人間だったかもしれないという可能性について考えてみよう。ここに私がいる。そこに哀れなフレッドがいる。神のご加護がなければ、あそこには私がいたかもしれない。私が私であって彼ではないのは、なんと幸運なことであろうか。そして、幸運があるところには偶然性がなければならないのである。私はいま、私が哀れなフレッド であるという可能性について考えており、それが実現されていないことを喜んでいる。私は世界の質的な違いを含むような可能性について考えているのではないー-たとえば、私とまったく同じ起源をもつ誰かがフレッドとまったく同じ不幸な境遇に陥っている世界について考えているのではない。そうではなく、この世界と全く同じようなある世界において自分がフレッドである可能世界に考えているのである。‥‥私が考えていたのは、単に私がフレッドの人生を送ったかもしれないということではなく、私がフレッドの人生を送ったフレッドだったかもしれないということだった(OPW,p.231,邦訳,p.263)
-----------------------------
 また、註(第4章)の次のくだりも興味深い。
-------------------------
(23)トマス・ネーゲルは、自分が誰か別の人物だったかもしれないという考えについて論じている。彼は次のように言う。「私がTN(あるいは誰であれ私が実際にそうである人物)であることは、偶然的であるように見える‥‥私はたまたまTNという公に同定可能な人物であるかのように思われるのだ(Nagel 1983:p.225)。ネーゲルによれば、この考えは額面どおりにうけとるべきであって、私が違った人生を送ったかもしれないというようなもっと扱いやすい考えに置き換えるべきではない。これに対して、私は次のように主張する。この考えは、ネーゲル自身が提案するように、結局のところ彼は本当はTNではないという考えに置き換えるのではなく、彼は、たまたまTNを通してこの世界を見ているが誰か別の人物を通してみることもできたような、ある「自己」であるという考えに置き換えるべきである(こんなことをして何になるのかだって?こちらの「自己」であってあちらのではないということの偶然性と幸運を感じてもらえないだろうか)。‥‥(OPW,p.317)
--------------------------

 また、ルイスの例と同じ偶然的同一性の例として野上が挙げている「緑と直子の人格が入れ替わる」例は、上記「研究日誌(2022/5/23~)」に引用済み。