研究日誌(2024/12/25)経験専門家の印象深い語りで読む統合失調症

■「社会に働きかける「経験専門家」」(下平美智代)こころの科学No229(2025年1月号)(pp.2-8)より、抜粋。

「次節では、そうした経験専門家の一人、本橋直人さんの語りを掲載する。‥‥
私は小学校高学年でうつ的な症状が現れ、学校に行くことができなくなりました。突然の変化であり、親も周りの大人も、私自身もちゃんとして対応をすることができませんでした。そこから不登校となりましたが、高校には何とか入学しました。高校在学中に幻聴の症状が出て、統合失調症と診断を受け、治療を続けながらの高校生活でした。‥‥高校卒業後、ある福祉事業所に通いました。数年が経ち、やがて幻聴も落ち着いてきて、一般の就労へと繋がって社会復帰をすることができました。まだ二〇代でした。この頃、運動を中心においた新しい治療法にも挑戦し、幻聴を完全に抑え込むことに成功しました。薬もなくなり、統合失調症は根治したと安堵したのを今でも覚えています。
 しかし、こここからが私と精神疾患との本当の戦いの始まりでした。うつ、幻聴、どちらもたいへんな苦難でしたが、それでも最低限の自我は保たれていました。その点で言えば、うつ、幻聴の症状は、まだ大ごとではなかったと今では思います。そこから現れてきた症状というのは、自分の記憶と現実の世界の情報が異なってしまう、知人の性格が変わってしまうなど、多岐に渡りました。とくに私のパソコンやスマートホンの中の情報は自分の認識しているものとは大きくかけ離れていき、開くたびに情報が変化するといった有様になっていきました。私の世界は文字通り本当の意味で、統合が失調した状況へと変化していったのです。そこから、三度の入退院をしましたが、状況は悪くなる一方でした。自分の認識が当てにならず、過去も未来も闇に暮れる状況では正常な精神状態でいられるはずもなく、私は常に不規則な情報を提示してくる世界と戦争をしているような状態でした。ただ、それでも少数、変わらない人たちがいて、その内の一人は通所している先のスタッフでした。その人が私の話を本当のこととして聴いてくれたきとが大きな助けになりました。その後も、変わり続けた世界のなかで粘り強く耐えしのぎ、そこから長い時間かかりましたが、現主治医も驚くような回復をして今に至っています。
 私は統合の失調した世界で日々過ごすことで、強いストレスがかかり苦しみましたが、それでも失うものばかりではありませんでした。その時間が私に、そこから生きていくためのある種のギフトをくれました。それは、常識や固定観念というものの脆さを体験できたことでした。私にとって今日は昨日の次の日であるということさえも確信がもてるものではなくなっていました。‥‥」(pp5-6)

 精神医学専門家なら、この「症状」に、認知機能障害、特に再認機能や時間的見当識障害を見るかもしれないが、正直言ってこのような不可思議な症状は今まで聞いたことがない。統合失調症にも、また人間精神にも、まだまだ未踏の領野、日の射し込むことのない深淵が横たわっているのだ。

読書日記(2024/11/19)『精神医療の現実』を読む

岩波明『精神医療の現実』(角川新書、2023)を読む。

いいことが書いてあったので引用する。

‥‥現実には家族にとって患者を病院に受診させることは至難の業である。さらに病状が重症であればあるほど、受診に結び付けるのは困難である。
 それでは、他に方法はないのであろうか。過去の時代、家族が要請すれば病院によっては精神科医が患者の自宅まで往診をし、その場で患者を説得したり、あるいは興奮が激しい場合は鎮静剤などを静脈注射したりして、そのまま病院に入院させることが行われていた。しかしこのような方法は「人権」を侵害するものとして認められない。それにもかかわらず、警察も救急隊もなかなか係わってくれないのが現状である。」(pp.124-125)

 これでようやく、過去の時代つまり40年以上前には、病院からスタッフが来て鎮静剤をうって入院させてくれたのに、最近は病院に連絡しても「連れてきなさい」という答えしか返ってこないかの、謎が解けた。

 

祝!斎藤元彦兵庫県知事選勝利:よくぞマスゴミ権力をあげてのバッシングを跳ね返した!

■11月17日開票の兵庫県知事選は、県議会満場一致で不信任されて失職したはずの前兵庫県知事斎藤元彦氏の劇的な復活劇となった。

 まだ不信任決議以前から、テレビでの連日の斎藤知事叩きに異様さを感じていた。これは報道という名の集団リンチではないかと。

 しかも斎藤氏は、このような目に遭いながらも決して辞めるとは言わず、真っすぐな目を視聴者に向けていた。確固たる信念の持ち主だと思った。

 だから、不信任決議が出る以前から、周りには「ボクは斎藤知事を支持する!」と言って失笑を買ったものだった。

 なぜなら、マスコミによってたかって苛められる方が後になって正しいことが分かり、人気が出たりして来た例を、これまでいくらでも見て来たからだ。

 角栄報道がそうだった。あれほど全国民の敵であるかのようにテレビが連日報道していたにもかかわらず、死後にはうって変わって大宰相あつかいだ。

 鈴木宗男報道の時もそうだった。私は早くから、鈴木宗男支持を周囲に公言して失笑を買っていたものだ。

 ところが獄中でプレイボーイ誌の人生相談を担当し始めてから人気が出て、釈放されてから見事に復活した。今では佐藤優が師と仰いでいた人だという評価が定まりつつある(最近のロシアびいきはいただけないが)。

 SNSの威力だのとマスコミはもっともらしく解説しているが、私はSNSなどやっていないが、あまりのマスコミによるいじめのひどさに、「どんな理由があろうと、いじめられる側ではなくいじめる側が悪い!」「寄ってたかって石を投げられる側に立つ!」という原則を発動させ、斎藤知事支持を打ち出したのだった。

 ネット記事をみると、SNSに無縁のシニア女性でも、似たようなことを言っていたらしい。連日テレビでいじめられる斎藤知事を見て、自分の息子を重ね合わせて可哀そうで涙が止まらず、選挙では斎藤氏に一票を投じたのだという。

 SNSなんて引き合いに出さないで、マスコミ業界人は、自分らの個人への集団リンチこそが、今回の結果につながったのだという事を、謙虚に反省するのがいいのだ。

 マスゴミ権力よ、もう勝手な真似はさせないぞ!今回の知事選での最大の敗者は君たちなのだから。

 

 

 

研究日誌(2024/6/23)「脳科学で解く心の病」(カンデル著)

■『脳科学で解く心の病』(カンデル著、大岩ゆり訳、築地書館、2024、原著2019)を読む。

「7番染色体の特定の領域の欠失がウィリアム症候群を引き起こす。一方、その領域の重複は自閉症スペクトラム症の発症の可能性を高める。」(p67)

「‥‥精神療法は生物学的な治療であり、脳内に検知可能で持続的な物理的変化を引き起こす。‥‥」(p.101)

「イメージング技術はさらに、精神療法が薬物療法と同じように、脳を物理的に変化させる生物学的な治療法であることも明らかにした。うつ病では、イメージング画像により、どの患者が薬物療法、あるいは精神療法、またはその両方で治療すると効果があるかを予測できることもある。」(pp.140-141)

「トラウマが海馬を損傷する結果、PTSDの患者は複数のきわだった症状を発症する。」(p.243)

精神分析だけでなく他の形態の精神療法も、脳と行動に実際に検出可能で持続的な物理的変化をもたらす生物学的な治療であることが、脳イメージング研究によってわかっている。今後は、精神療法がどのようにして生物学的変化を起こすのかを解明する必要がある。」(p.323)

 

研究日誌(2024/5/22)シュミッツ『身体と感情の現象学』が「オデュッセイア」に二元論の始まりを見る

ホメロスイーリアス』と『オデュッセイア』の間の深淵

 デカルトが二元論の開祖だみたいな言説をみるたびに嗤いたくなる。
 二元論は人類に普遍的な思考傾向としてどこにでもある。
 私たちも日常は二元論的に生きている。

 西洋精神史のなかで二元論の哲学的な定式化は、通常プラトンに始まると言われているが、シュミッツはさらにその淵源を、ホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』の間に置く。

 『身体と感情の現象学』の第七章「ヨーロッパの哲学における身体と魂」から、幾つか興味ある個所を引用しよう。
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 ‥‥人間をつねに身体と魂によって組織された一なる複合体であると考える心身論的人間学は、後世全般にわたって規範となっていくその特性を、遅くともプラトンの時代には担っていたという事実である。(p305)

イーリアス』のプロオイミオンが示しているように、ホメロスにとって、人間とはその身体である。ところがソポクレスになると人間は魂と同一視され、そしてプラトンにいたって今述べたような人間の新しい位置が明確に打ち出されたのである(25)(p.312)。

人間の自己理解に関していえば、『イーリアス』と『オデュッセイア』との間にはひとつの亀裂が生じているからである。『オデュッセイア』は、人格が自己に権能を付与していくのを詩的に謳い上げたプログラムであると言ってもほとんどよいくらいであって、そういった仕方で人格が自己に権能を付与することは、心身論的人間学の魂の概念ーーそれは『オデュッセイア』ではまだ欠けているのであるがーーを用いて、その後プラトンにいたるまで理論的なかたちで広範囲に行き渡ることになったのである(27)。‥‥『イーリアス』ではまだ意のままにすることができなかったが、『オデュッセイア』に登場するオデュッセウスにしてはじめて所有することのできた次のような能力である。それはすなわち、自分自身を外からながめ、ひいては自分の顔の表情を自在に操って、「少しもそぶりを表さない」ようにする能力である。‥‥プラトンにとって怪しむに足るべきはずのホメロスのあらゆる作品のなかで、プラトンはただこの箇所だけは重視しており、そればかりか繰り返しここと引き合いに出していることは特筆に値する。‥‥ヨーロッパの人間が、自己理解の最も実り豊かで最も柔軟な、そして後世にくまなく浸透していった発展段階、つまりホメロスプラトンとの間のギリシャにおいて内部世界や魂を獲得するにいたったということである。(pp.312-315)

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また、次のくだりは、以上の論旨とは離れているが、最も興味深い。なぜなら、中立一元論や二相一元論によって二元論を克服しても、他者を問題にするや否や困難が生じ、もとの二元論に戻ってしまいがちだから。
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内部世界投入論を信憑性のないものとみなし、この問題を根本的に提起することのできた最初の人物はリヒャルト・アヴェナリウスであった。彼はひとつの解答を見出したが、それはなるほどもっともらしいものではあるけれども、単なる机上の空論にすぎないようなものである。すなわち、それによると、自分の回りの人間を自分の世界に組み入れようとすると、さまざまな困難が生じるが、各個人にとってこのような困難が、公開的に近づきうる外部世界と並んで、内部世界なるものを自分自身に帰属せしめる原因となったのである(8)。(p.304)

 

 

研究日誌(2024/05/21)オンラインジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』Vol. 6 刊行のお知らせ

■オンラインジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』("Revue d'épistémologie et des sciences de l'esprit", or "Journal of Epistemology and Mind Sciences")

Vol.6 (2024)は5月15日にJ-Stage公開されました。  ←ココから入る

<内容>
・Editorial
 田中彰吾 第40回人間科学研究国際会議(IHSRC 2023 Tokyo)開催記
・Original paper(原著論文)
 Teruaki Georges Sumioka   Reality as Story: Sensibility and Orientation (純丘曜彰 物語としての現実感:感性と見当識
・特集「人文死生学」
・研究会報告
 人文死生学研究会(共催:心の科学の基礎論研究会)報告(2024)
・コメント論文
 榛葉豊 南学正仁(2023)「『なぜ私が死ななければならないのですか』:科学としての医療が崩れるとき」への現代物理学からのコメント ― 「科学的世界観の崩壊」と観測主体位置づけの変化 ―
 小島和男 『こころの科学とエピステモロジー』Vol.5,2023「特集人文死生学」収録の以下5件へのコメント:随想(水島淳)/研究随想(渡辺恒夫)/書評(久場政博)/書評(重久俊夫)/ゲストエディター解説(新山喜嗣)
・書評
 渡辺恒夫『精神科の薬について知っておいてほしいこと:作用の仕方と離脱症状』(J.モンクリフ著)
 重久俊夫『自由と成長の経済学』(柿埜真吾著)
 渡辺恒夫『デイヴィッド・ルイスの哲学』(野上学志著)
・映像メディア時評 特集
 土居豊 「京アニ事件と『涼宮ハルヒ』 本当に小説・アニメが犯行の引き金なのか?:事件裁判の経過を通じてもう一度、小説・アニメ『涼宮ハルヒ』シリーズと京都アニメーション事件の関係を考える
・Miscellaneous
    小笠原 義仁 AIに心は存在するのか?
 A.ビネ & V.アンリ/ 渡辺恒夫(訳) 単語の記憶(1894):フランス最初の心理学専門誌創刊号巻頭論文

・編集後記・編集委員会名簿
・投稿執筆規程

研究日誌(2024/5/12)シュミッツ『身体と感情の現象学』とフッサールの訳語

■『身体と感情の現象学』(シュミッツ/著、小川イ兄/編訳、産業図書、1986)で、フッサール他者論のキーワードAppraesentationの訳のヒントになる部分を見つけたので引用する。

 過去と未来が現在化されていず、また位置時間にはめこまれたりされていずに、従って様相時間が水平化されていないとき、このときに限ってその様相時間を純粋様相時間と呼ぶ。そこで以上のことをまとめれば、根元的な仕方で身体が襲われるという例に即して純粋様相時間は次にのべるような構造をもっていることが明らかにされた。絶対的瞬間としての今は一時的現在あるいは身体の狭さにおいて、自我や現にあるということ、さらにまた私がこれまで無視来て来たこれ以外の契機とも一体となっている。そして、今は未来とも融合して一つの全体をなしているのだが、それは未来が多義的なものを一義化する出来事として〔現在の方からは〕逆行しえぬほど傾斜してきたこれ以外の計ことも一体となっている。そして、今は未来とも融合して一つの全体をなしているのだが、それは未来が多義的なものを一義化する出来事として〔現在の方からは〕逆行しえぬほど傾斜した形で今のなかへと入り込んでくるからである。引き離せぬ仕方で未来と現在という両極の間に張り広げられたこの全体、私はこれを来現(Appraezenz〔「‥‥へ」を表すadと「現在」を表す praesensを合わせたラテン語起源の合成語〕)と呼ぶ。来現へと拡張された現在はまた、純粋様相時間のなかで多義的な過去から、それらをわかつ裂け目によってひきさかれつつも、またそうした仕方で融けあっているのである。(p.207)
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これで見ても、かつて研究日誌2022/6/23記事で論じたように、フッサール他者論のキーワードAppraezentationは、他者論の文脈で「来現前」と訳すのが適切と思われない以上、向現前と訳すのが正しいと分かる。現象学者が用いている共現前は明らかにおかしい。