研究日誌(2012/3/26)「人は身体に生まれるのではない、身体になるのだ」

『身体を引き受ける』(ゲイル・サラモン著、藤高和輝訳、以文社、2019)を読んでいて、見出しのような面白い表現にであったので、抜き書きしておく。

「チャールズ・シェーファーソンは精神分析における身体の構成を、「小さな有機体がその身体を探し求めるという奇妙な神話」と呼ぶ。この神話はその状況誇張された主意主義的な特徴づけを施して「いるけれども、精神分析の内部において、人は身体に生まれない、身体になるのだ、ということは真理であるように思われる。」(p.38)

アグリッパ・ゆうきの読書日記(2021/3/20)『現象学とは何か』を読み、左翼の暴力性について思う

社会学出身の哲学者、西研さんに、『現象学とは何か』(河出書房新社)という共編著を贈られた。

西さん自ら書いた第2章「総論2」を読んでいて、「客観的真理を所持していると信じる者は、ときに暴力的になる」とあるくだりに目がとまった。

前後関係から、これがかつて内ゲバを引き起こしたマルクス主義左翼のことだとたやすく分かる。

なるほど最近は左翼も、かつての暴力革命路線を引っ込めて、鎧の上の衣よろしく「リベラル」の仮面を付けるのに余念がないように見える。

けれども、ふとしたスピーチにも暴力性の片鱗が窺われて、ゾクッとすることがある。

昨年秋にも、精華大の準教授が、ユーミンが安部前首相の退陣を惜しむメッセージを発表したのを掴まえて、ユーミン荒井由実のままで死んでいればよかった、といったことをブログに書き、大学から訓戒処分を受けたというニュースがあった。

精華大と言えば、マンガ家の竹宮恵子さんが学長をやっておられることで知られているが(まだ現役だったかな?)、大学側の処分理由に、死んでいればよかったという暴力性は見過ごせない、といったくだりがあったことが印象に残っている。

処分を受けた准教授は資本論の研究者というから、ガチでマルクス主義者なのだろう。言葉による暴力をもヘイトスピーチとして許容しないほど、リベラル化が進んだ世の中で、マルクス主義左翼が時代に取り残されつつあることの、象徴的事件とみえた。

似たような事件で、6年前の安保法制問題のころ、国会前での反対派の集会で、山口なんとかという当時の北大教授で(たぶん)民主党の顧問だった人が、「安部よ、ぶったぎるぞー」とマイクで叫んだということがあった。

これなど、歴としたヘイトスピーチで、今の時代なら確実に問題視されただろう。

けれども、山口なんとか氏が、民主党はじめ集会の責任者側から処分を受けたという話は、ついぞ聞かない。

後で知ったのだが、この人は日本社会党史の研究者でもあるらしい。
年齢からいっても70年大学紛争の頃は暴力革命を怒号していたクチだと見当が付く。

ちなみに旧日本社会党は、名称から想像されるような社会民主主義政党ではなく、歴としたマルクス主義政党だった。だから社会民主党に党名を変更しようというときに反対論が噴出し、一部は新社会党へ、そして一部は民主党へと流れ込んだのだった。

それはともあれ、いくらリベラルの仮面を被っていても、左翼マルクス主義の暴力性がどこかで顔を出すものなのだ。ちなみに左翼的ヘイトスピーチのターゲットが安部前首相に集中していることに気づく。安部さんにとっては名誉なことと捉えるべきか(笑。

周知のように戦後左翼は、連赤事件からベルリンの壁崩壊と、崩壊の一途をたどった。これを右傾化などと胡麻化さないで、証言を残し、原因を究明し、代案を提起してゆかなければ、またぞろ同じことの繰り返しになってしまうだろう。

以前もこのブログで紹介した「学問の自由と民主主義のための現象学」(寄川条路(編)、稲正樹・榎本文雄・島崎隆・末木文美士・不破茂・山田省三・渡辺恒夫(著)『表現の自由と学問の自由―日本学術会議問題の背景―』(社会評論社、2021)所収)

https://www.shahyo.com/?p=8478 は、そのために少しでも役に立てればという思いで書いた一文に他ならない。

 

 

 

 

 

 

研究日誌(2021/3/14):サルトルの他者論

Zahavi, D. Beyond empathy: Phenomenological approaches to intersubjectivity. Journal of Consciousness Studies, 8, No.5-7, 2001, 151-167

を読む。サルトルの他者論をハイデガーより高く評価するのは有り難いが、サルトルを学生の頃初めて読んだときに思った、アプリオリともいえる他者の視線の抽象性は、ザハーヴィでも乗り越えられていないな、と感じた。

 私と根源的な他者は、他者の視線一般のようなものではなく、私と同等の個別的存在でなければならないはず。

研究日誌(2021/3/9):ミシェル・アンリによるフッサール他者論検討1

‥‥それは現前化されず、ただ表-象[再-現前化]され、付帯現前化されるだけである。それが他人なのである。まさしくこれが、知覚的経験と他人についての経験との有田にある差異である。第一の経験においては、対象の裏面はいつでも表面になりうる。第二の経験においては、わたしの帰属圏域のうちで対象として現れる他人の身体の裏面、つまりこの身体-有機体の実的主観性は、表面とはなりえない。(3)フッサールが気付き、直面している困難の動機とはこのようなものである。つまり、「転移された意味が存在妥当性をもつものとして、あそこの物体に存在する心的諸規定の内容として受け入れられるのに対し、他方でその心的諸規定は、本源的圏域の(‥‥)元的領分においてけっしてそれ自身として自らを示すことができないというのは、どうしてだろうか」(第52節)。(ミッシェル・アンリ『実質的現象学』pp/186-187)

研究日誌(2021/3/8):夢日記・ギリシャ悲劇『トロイアの女』・時間を異にした私

■2021年3月8日。朝。夢を見た。

長い夢だった。

最後の方では学科の記念行事か何かで、元教員として、自転車に乗ってパレードに参加していた。

私の前を行くのはST。色んなノウハウを知っているので、頼りにしている(このあたり、学科とは何の関係もないSTと、元学科の非常勤講師で実験指導に来てもらっていたKさんとが融合しているようだ。特にKさんは目下、J-Stage搭載の件で世話になっているので、印象が強い)。

 自転車で、凸凹になった舗道を漕いで行く。その肉体感覚が、目覚める前から覚醒後まで連続的に、まざまざと残っていた。

 この場面の前になにかがあった。それは、昨夜読んだユウリピデスの『メディア』の話を連想させる何かだったはずだが、もう思い出せなくなってしまった。

 メディアとは、金羊毛を取りにアルゴ船を仕立ててギリシャから黒海の奥の国へと行った、英雄イアソンの冒険譚に出てくる。その国の王女で、魔法を使ってイアソンを助け、実の弟を殺してまで従って伴にギリシャにいった。そこでも、イアソンに金羊毛取りという難題を吹っかけた叔父の国王を謀殺して、イアソンに尽くした。

 故国に居られなくなってイアソンとメディアはコリントスの国に逃れるが、そこの王がイアソンに王女の婿になれと勧めて、イアソンは受け入れ、結果としてメディアはまったくの異国に、二人の子供とともに捨てられることになる。

 それからが魔女の本領を発揮して、花嫁とその父王を毒殺し、さらには二人の我が子もイアソン憎しに殺して、竜車に乗って去る。そういった、救いようのない話だが、アリストテレスの『詩学』ではギリシャ悲劇の代表作として論じられているそうだ。

エウリピデストロイアの女』を読んで、落城のトロイア王妃ヘカベとは、わたし自身であったかそれともゾンビであったかの二者択一を迫られる

 元々、『ギリシャ悲劇全集3ユウリピデス(前)』(ちくま文庫)を手に取ったのは、『トロイアの女』を読むためだった。舞台はトロイア陥落の後、残されたトロイア王家の女性たちの運命を描いているのだが、中心となるのは、王妃ヘカベ。その前に、息子のヘクトルもパリスも戦死していたが、陥落時に目の前で夫のプリアモス王を惨殺され、木馬の詭計を見破ったのに誰にも信じて貰えなかった娘のカッサンドラは気が狂い、末の娘はアキレウスの墓前に人身御供に供され、ヘクトルの遺児も城壁から投げ落とされるというように、一族ことごとく悲惨な末路をたどり、自らも奴隷としてギリシャに連れていかれる。その運命が次々と明らかになる展開を、ヘカベの身も世もあらぬ嘆きと共に描き出している。

 大河ドラマでいう「戦国のならい」ではないが、古代の戦争では敗者は男は皆殺し女子供は奴隷にされた(子供でも主だった者の男児は殺された、うっかり情けをかけると、それこそ頼朝によって平家が滅ぼされたようなことになる)。だからこの程度の悲劇はありふれていたかもしれないが、特にトロイア王家の女性たちの場合、それまでの栄華との落差が激しく、余計に悲劇性が著しい。

 このような歴史上の悲惨な運命に遭った人物のことを知ると、昔からの、子どもの頃からの、ある疑問が頭をもたげるのを禁じえない。それは、

 ヘカベはこの私だったのではないか。そうでないなら、ゾンビだったのではないか。

■他者とは何かと私の死とは何かという二つの問いは同一であること。

 ヘカベが私と等根源的な他者であるという意味は、「私がヘカベとして生まれたような可能世界の実在を確信する」という意味である。ところが、現に私はヘカベではないので、この確信の意味は、「過去か未来に私がヘカベであるような世界がかつて現実化していたor将来現実化するだろう」という意味になる。それ以外に考えようがないではないか!

付記 この後、サルトルに『トロイアの女たち』という現代劇化作品があることを知った。そのうち読んでみよう。

<未完、作業中>

研究日誌(2021/3/1):『現実とは何か』

■『<現実>とは何か』(西郷甲矢人・田口茂、筑摩書房、2019)を読み始める。

まだ第1章だが、面白いくだりがあったので、引用しておく。

「観測者から独立である」といっても、一切観測されないのであれば、「物」として問題にすることさえできない。「観測者から独立である」とされる「物」も、何らかの仕方で観測され ているはずである。観測はされるのだが、その観測のされ方が、「誰から見ても、どのような仕方で見てもある」という形をとっているのが、「観測者から独立である」ということである。つまり、「独立」と言っても、観測者が無関係になるわけではなく、観測者との関係をどのように変換しても、つねに「それがある」ということは変わらないということである。これは要するに、「観測者から独立である」といわれるあり方を、「観測者を考慮に入れた変換規則の恒常性」というより普遍的な恒常性に、その特殊な一例として組み込むことができるのである。

 だから、前者から後者がどのように導けるか、ということは、発見の順序としては問題になりうるとしても、本当の意味で前者から後者を「導出」することができるはずがない。むしろより普遍的な恒常性である後者から、どうして前者のような特殊な恒常性の成立が可能になるのか、ということの方が、実は自明でない問題なのである(pp33-34)。

 ‥‥「場」の根本的な規定は、「変換規則の恒常性」というものである。「変換規則」というからには、「何の変換規則か」という問いが当然つきまとう。「何の」ということを抜きにした「変換規則」というものは意味を失う。「変換規則」とは、「現われ」の変換規則で会って、「現われ」を捨象した単なる形式ではない(p.36)。

 ‥‥粒子は「ここ」ではないどこかに現われてもよかったはずだが、なぜ「そこ」ではなく「ここ」に現われたのか、については、物理の理論としては沈黙せざるをえない」(p.45)。

アグリッパ・ゆうきの読書日記16:恐竜の如く時代に取り残されたマルクス原理主義者の悲劇『東京大学学問論 』

東京大学学問論  佐々木 力 (著),作品社  2014

恐竜の如く時代に取り残されたマルクス原理主義者の悲劇

 

この著者はしきりにセクハラ冤罪を主張しているが、それにしては書くのを隠していることが少なからずある。その一つに、本書にも「労働者の力」として出て来るトロツキスト組織(第四インターナショナル日本支部の流れを受け継ぐ)が、著者の佐々木をセクハラの罪で除名処分にしていることだ。インターネットで「労働者の力 佐々木力」を打ち込めば簡単に、「労働者の力」掲載の事実経過報告と声明文を読むことができる。

 知らない人のために言っておくと、この第四インターナショナルとは、スターリン旧ソ連邦を追われたトロツキーが、スターリンに対抗して作り上げた組織。その日本支部は、昔は中核や革マルと一体だったが、サヨク党派の例にもれず、分裂抗争を重ねて小さくなった挙句、成田「闘争」での野営中に女性メンバーへの集団強姦事件を起こして、日本支部の資格をはく奪された。そんな過去があるからこそこの種の事件にはナーヴァスで、看板の筈の佐々木を除名するに至ったのだろう。否、そんな推測をせずとも、この事実報告を読めば、佐々木の行為が本書に述べられたような生易しいものではないことが分かる。本書で東大関係者への誹謗中傷の限りを尽くすくらいなら、同志であるはずの労働者の力をまず説得すべきだったのに、全くそれが出来ていない。

 それにしても、当の訴えを起こされた台湾人留学生Yさんとのトラブルが発生するまさにその日に、佐々木は自分で書いているように事務の女性にも訴えられている。頼んでおいたコピーの仕事をきちんとやらなかったこのXという女性を、厳しく叱責したところ、Xはワッと泣きだし研究室主任の教授の部屋に駆け込んだ。主任がXを伴って出てきて、セクハラじゃないですか、と咎めた、とある。佐々木は後に、Yとの仲介に当たった別の留学生にも、訴えを起こされるにいたっている。3つも訴えが重なったのは、たとえ主観ではセクハラの積りがなかったとしても、何か問題があると思わざるをえない。私は著者の佐々木とほぼ同年輩だが、自分の大学で事務の女性を同じように叱責しても、ワッと泣かれるなど考えにくい。逆にオツムの状態を心配されるのがオチだろう。

 つまり、この著者の権威性と内に秘めた暴力性が、事務の女性を脅かせワッと泣かせることになったのだと、想像せざるをえない。この権威性と内に秘めた暴力性こそ、この著者の文体に時々感じるところだし、また、若い頃に読んだマルクスレーニンの文体に覚えた違和感にも通じるところなのだ。

 といって、本書がまるきりダメという訳ではない。大学院生を少し厳しく指導しただけでパワハラアカハラ、女性院生の場合ならセクハラ呼ばわりされるという、本書でも知人の言として紹介されている現状への批判・告発の書としては読むに値する。だから星ひとつおまけをしておいた。けれども、アメリカにもセクハラでっち上げを内部告発するような良心的フェミニストとドゥオーキンのような男性ヘイト型フェミニストがいることに気づいたはいいが、後者を「右翼フェミニスト」と呼ぶ文献を探し出してきて、鬼の首でも取ったかのように「右翼フェミニスト」を連発するのはいただけない。左=正義、右=悪という、黴の生えた公式を恥ずかしげもなく振り回す貧寒に過ぎるステレオタイプ思考ぶり。自分の思考力が残っているなら「右翼」以外のレッテルを案出してみたらどうだろうか。評者なら「フェニミスト・レイシズム」という呼称を使う。男性ヘイトが昂じて男性が女性と別の「種」(race)であるかのように見えてくるという精神状態のことだ。

 それともう一つ、この著者を悲劇的にしているのは、保守派ならトランプ支持者の白人のようにポリティカルコレクネスはもう沢山よ!と叫べば済むところを、あくまでマルキシストとして弱者の味方でなければならないという矛盾ゆえに、権力による(笑)陰謀論を作り上げて自分はその犠牲者だ、といったお話にせざるをえなかったことだろう(ホントに自分で信じているんだろうか?)。おまけに「前衛組織」(笑)からも除名されたとあれば、もはやマルクス主義者としての存在理由はゼロどころか、負の広告塔になってしまったと言わざるをえない。2017年