アグリッパ・ゆうきの読書日記12: 精神障がい者家族への偏見が垣間見られる『造反有理 ー精神医療現代史へ』という本

●『造反有理 精神医療現代史へ』 立岩真也  (著)、青土社、2013

精神障がい者家族への偏見が垣間見られる

評者はかねがね、精神科医が家族の蒙る暴力の問題に無関心なのは、患者家族をバカにしているからではないか、という疑いを抱いていたものです。この疑いは、半世紀近く前、東大医学部を中心に青医連なる反精神医学をかかげた、本書でいう造反有理集団の一員らしき医師が、ある雑誌に書いていた記事を読んでいて萌したのでした。それはまさに患者家族をバカにしきった文章だったのです。

 といっても、半世紀近く前の記事なので引用するわけに行かないのが残念と思っていたら、本書を読んでいて、まさに絵にかいたような患者家族蔑視の文章が出ていたので引用します。

 ‥‥「問題は誰がなおしたいかということです。身体病の場合は主として本人がなおしたいのであり、精神病の場合は主として社会がなおしたいのです。」(吉田)という、患者当事者の言葉を引いて、次のように述べているのです。

 「‥‥当たっている。社会と言っても小さな社会もある。家族に発病した人がいて、当惑する。ときにははっきり迷惑であり、疲労困憊してしまう。困るのは近所の人でもあるかもしれない。つきあい、扱いに困ってしまう。自らの身が危ないように感じられること、実際危ないこともある。それで精神病院で面倒を見てもらうことにする。‥‥」(p.300)。

 評者はあっけにとられてしまったものです。「家族に発病した人がいて当惑する」だって?なにノーテンキなことを言っているんだろ。評者の知る限り、わが子が統合失調症の診断を受けると母親は一晩中泣き明かします。そう、「家族に発病した人がいて、頭が真っ白になり、嘆き悲しむ」のです。こんなことも分からないほどに、この、東大大学院卒でブランド大学の社会学教授さんは、人間性を失ってしまっているのでしょうか。その点、最近読んだ『精神障がい者の家族への暴力というSOS』(蔭山正子著、明石書店)では、保健師を長らく勤めていた著者によって、次のように正確にしかも暖かいまなざしで述べられています。

 「子どもが精神疾患に罹患した親が、その衝撃から心的外傷後ストレス障害を引き起こす可能性があることも指摘されているように、家族が精神疾患を患うこと自体が、大きな衝撃となる。また、専門家とのコミュニケーションは必ずしも満足いくものではないことも実態であり、家族には怒りや無力感、自責の念など様々な感情が生じる。愛する家族が精神疾患であるという事実に直面することの衝撃や落胆も大きい。それまでの家族像を失う、喪失体験でもあるだろう。精神障がい者に対する社会的な偏見、そして患者自身(本人)やその家族の持つ内なる偏見が、より孤立した状況を強めてしまうことも少なくない。このような状況の中で、多くの家族が本人と同居し、疲弊しながらも療養生活を支え続けている、というのが日本の現状である」(p.39)。

 まさに、東大病院の精神科医や東大出身の社会学者と言ったエリートたちの、患者家族に対する偏見差別のまなざしにこそ精神障がい者差別の根源があることを確認できた、本書は反面教師です。

 といって、このような偏見差別が、精神病の家族原因論がとっくにすたれた今になっても残っているのも、家族当事者からの声が少なすぎるということがあるのでしょう。もちろん、蔭山氏の著書が家族会の協力の下に書かれたことに見るように、家族会の活動はあります。精神分裂病の名称を統合失調症に変えさせたのは、その最大の成果と言えます。けれども、とかくロビー活動に偏して与党代議士と仲良くなったりして、本書の中でも揶揄の対象になっているように、ジミンガージミンガー攻撃のターゲットになりやすい。必要なことは、家族当事者としての研究の積み重ねです。親にはそんな余裕がないので、可能性があるとしたら兄弟姉妹です。評者の知っている範囲では、精神障がい者兄弟姉妹には、PSWを目指す人が割といて、その中から家族当事者研究が出てくることが期待されるのですが、現実はそう甘くない。研究は顕名でしかできないから、自分自身の家族に及ぼす影響を考えなければならない。それでも知的障がい者の兄弟姉妹当事者研究は始まっていますが、研究成果を出版しても当人に読まれる気遣いがないからできることでしょう。

 でも、こんな言い訳ばかり言っていても進展しないので、誰かがやらなければならない。一つの方法は、インターネット上の兄弟姉妹のサイトをテクスト・データとすることです。「人生めちゃくちゃにされたー」といった血を吐くような叫びなど、深刻な事例もあります。冒頭に引用した著者のノーテンキな発言も、親、特に母親にはまったく当てはまらないが、兄弟姉妹になら当てはまるところもあります。所詮、兄弟は他人の始まりですから。

アグリッパ・ゆうきの読書日記11:『精神障がい者の家族への暴力というSOS』で考える家族への差別

『精神障がい者の家族への暴力というSOS――家族・支援者のためのガイドブック』 ( 蔭山 正子 (著, 編集) 、明石書店 2017

【精神障がい者差別の背景にある精神障がい者家族への差別が見えてきた】
世界的に見ても画期的な本です。それは「はじめに」の次のくだりを読むだけでわかります。
‥‥精神疾患は、未だに多くの一般市民にとって「よくわからない」病気である。「怖い」「わからない」ことからくる不安は、精神障がい者を社会から排除するという施策につながってしまったのだろう。「怖い」と思う主な理由は暴力である。ゆえに、暴力の問題は、精神保健医療の核心とも言える。/欧米では、社会防衛的観点から犯罪歴や他人への暴力について多くの調査を行ってきた。しかし、世界が誤っていたことがある。精神障がい者による暴力は、外で見ず知らずの他人に向かうことは稀で、多くは家庭の中で家族に向かう。‥‥暴力の問題は、家族への暴力に焦点が当てられてしかるべきだが、家族への暴力に関心が払われることはなかった。/本書が扱う、精神障がい者から家族への暴力については、世界的に研究が少なく、「無視されている研究領域」と言われている。それは、社会防衛ばかりに注意を払っていた社会の問題であり、精神障がい者への偏見を助長させたくないために家族や関係者が暴力の事実に蓋をしてきた問題でもある。家族への暴力の発生率を示した研究は、世界で7つしかない。私たちの研究がその中の一本だ。‥‥/‥‥以前、保健所で保健師としてご家族から精神障がいの方を治療につなげる相談を多く受けてきた。その中でご家族が暴力を受けていることを知っていた。しかし、今の制度では家族をすぐに助けることはできないとあきらめ、「危険なときには110番してください」「逃げて下さい」と言うのみだった。家族の凄まじい現状に積極的に向き合うことを避け、見て見ぬふりをしていたとも言える。この研究では、多くのご家族がインタビューで過去の辛く思い出したくない経験を話し、またアンケート調査に回答してくれた。調査の説明をした際に、ある父親から「今まで助けを求め走り回っても解決できなかったことをあなたに解決できる訳がない!無意味だ!」と激しい剣幕で言われた。その父親がどれほどの思いで戦ってきたのかが痛いほど伝わってきた。私は、暴力の問題を知れば知るほど、その問題の深刻さを目の当たりにすることになった。/家族への暴力の問題に取り組み、分析と議論を積み上げていくと、問題の核心が見えてきた。それは驚くべき結果だった。これまで家族に向く暴力の問題は、障がい者への配慮として扱われなかった側面があった。つまり障がい者を加害者として扱ってはいけないという配慮だ。しかし、結果は反対だった。障がい者はむしろ被害者だった。‥‥社会での生きづらさからくる苦悩やトラウマが、傍にいる家族への暴力となって表出されている側面があったのだった。精神医療や地域支援あるいは社会の至らなさが障がい者を苦しめ、家族を追い込んでいた。‥‥
 引用が長くなりましたが、あとは読んでいただくことを願うばかりです。評者個人の感想としては、この本の問題提起を超えて、精神科医が家族の蒙る暴力の問題に無関心なのは精神科医が患者家族をバカにしているからではないか、という疑いを投げかけたい。この疑いを評者は、半世紀前、東大医学部を中心に青医連なる反精神医学をかかげたエリートの反体制(笑)集団の一員の医師が、ある雑誌に書いていた記事を読んでいて抱いたのでした。それはまさに患者家族を小バカにしきった文章だったのです。
 といっても、半世紀前の記事なので引用するわけに行かないのが残念と思っていたら、たまたま手にした『造反有理ーー精神医療現代史へ』(青土社、2013)という、東大での社会学者の書いた本に、まさに絵にかいたような患者家族蔑視の文章が出ていたので、引用します。
 ‥‥「問題は誰がなおしたいかということです。身体病の場合は主として本人がなおしたいのであり、精神病の場合は主として社会がなおしたいのです。」(吉田)という、患者当事者の言葉を引いて、次のように述べているのです。
 「‥‥当たっている。社会と言っても小さな社会もある。家族に発病した人がいて、当惑する。ときにははっきり迷惑であり、疲労困憊してしまう。困るのは近所の人でもあるかもしれない。つきあい、扱いに困ってしまう。自らの身が危ないように感じられること、実際危ないこともある。それで精神病院で面倒を見てもらうことにする。‥‥」(p.300)。
 評者はあっけにとられてしまったものです。「家族に発病した人がいて当惑する」だって?なにバカなことを言っているんだろう。評者の知る限り、わが子が統合失調症の診断を受けると母親は一晩中泣き明かします。そう、「家族に発病した人がいて、頭が真っ白になり、嘆き悲しむ」のです。こんなことも分からないほどに、この、立岩とかいう東大大学院卒でブランド大学の社会学教授さんは、人間性を失ってしまっているのでしょうか。その点、本書『精神障がい者の家族への暴力というSOS』では、次のように正確にしかも暖かいまなざしで述べられています。
 「子どもが精神疾患に罹患した親が、その衝撃から心的外傷後ストレス障害を引き起こす可能性があることも指摘されているように、家族が精神疾患を患うこと自体が、大きな衝撃となる。また、専門家とのコミュニケーションは必ずしも満足いくものではないことも実態であり、家族には怒りや無力感、自責の念など様々な感情が生じる。愛する家族が精神疾患であるという事実に直面することの衝撃や落胆も大きい。それまでの家族像を失う、喪失体験でもあるだろう。精神障がい者に対する社会的な偏見、そして患者自身(本人)やその家族の持つ内なる偏見が、より孤立した状況を強めてしまうことも少なくない。このような状況の中で、多くの家族が本人と同居し、疲弊しながらも療養生活を支え続けている、というのが日本の現状である」(p.39)。
 まさに、東大病院の精神科医や東大出身の社会学者と言ったエリートたちの、患者家族に対する偏見差別のまなざしにこそ精神障がい者差別の根源があることを、気づかされたのでした。2017年7月20日

アグリッパ・ゆうきの読書日記10:ブルデュー著『ホモ・アカデミクス』は、学界におけるマルクス主義支配の過去という日仏共通のテーマへの手がかりを与える

『ホモ・アカデミクス 』ピエール・ブルデュー (著), 石崎 晴己 (訳)、藤原書店、1997

標題のようなテーマへの手がかりが散りばめられている。

そんな一節を、忘れないうちに引用しておこう。

「‥‥学問的に時代遅れになった生産者たちが、学問的業績に対する政治的批判という手段に訴えて、自分を凌駕する者をこちらが凌駕しているのだという幻想を、自分に、そして自分の同類たちにも与える、そういう政治的批判の形態などはあまさず調査する必要がある。歴史学におけるマルクス主義の現状ーーこれまでになされたそれの社会的使用法の実際の中で見られる限りでのーーは、『人民』や『民衆的なるもの』へのすべての参照によって、学問的にもっとも貧しい者たちが、学問的判定者たちに対する政治的判定者に自らを仕立てあげるための、最後の手段という機能をしばしば持っていることを見過ごすなら、理解できないであろう。」(p.60)

 思い起こすのは大学入学した当時のこと、革命(笑)への隊列に加われと勧誘に来たマルクス主義系の学生運動家に、自分は分析哲学をやりたいが革命が起こっては学問の自由は守れそうもない、と言って断ったところ、「人民に役に立たないような学問の自由は守る必要がない」と凄まれたことだ。その後、評者は哲学の道には進まなかったが、半世紀たった今、分析哲学の隆盛とマルクス主義哲学の凋落どころか消滅ぶりを横目でも見ることができる。まったく、当時、学園紛争の頃すでに、マルクス主義は学問的には最も貧しくなってしまっていたにもかかわらず、「人民」を引合いに出すことで大威張りしていたのだと分かる。その後、マルクス主義が凋落してからも、「被抑圧者」を引合いに出して威張ろうとする風潮は、フェミニズムや各種の反差別運動に引き継がれて、いまだに跡を絶たない。

 まだそこまで読んでいないが、本書の最終章には、1968年のいわゆる5月革命の分析が加えられている。日本でも必要なのは、同時代の「全共闘新左翼」運動なるものの冷静な分析ではないだろうか。二度とあのような、青年全体主義運動を再来させないためにも。そして、分析研究の結果がまとまったら、これもフランスの研究者が出している『共産主義黒書』にならって、『全共闘黒書』という本にするのだ。

(2017年3月22日)

アグリッパ・ゆうきの読書日記9:サヨクからの脱カルトカウンセリングにヒントを与える『日本共産党と中韓 - 左から右へ大転換してわかったこと -』

筆坂 秀世『日本共産党中韓 - 左から右へ大転換してわかったこと -』 (ワニブックスPLUS新書) – 2015/6/8

 著者と同世代で、大学紛争を通じてサヨク勢力の実態を、内側からも外側からもつぶさに見て来た者として、すでに知っていることもあったが共感するところもあった。

 ただし、最も感銘を受けた部分が、友人が送ってくれた林健太郎『昭和史と私』(文春文庫)への感想文をそのまま引用して本書の結びとした部分であり、著者自身の文章ではないので、星ひとつ減らしておいた。

 その引用部分のうち、林健太郎の著書からの引用がためになるので、またまた引用しておこう。

 「‥‥ひとたび捕えられたイデオロギーから脱却するというのはなかなかむずかしいものである。それはそのイデオロギーの唱える理論が客観的事実と合致しなくなることによって生ずるのであるが、その過程がまた決して簡単ではない。というのはかつて信じた真理の誤りを認めるのは辛いことであって、そこで初めはなるべく認めまいとする。都合の悪い事実は『デマ』であるといって否定する。」

 「‥‥そして否定し得ない事実が存在しても、それは本質的ならぬ現象だとしたり、あるいは努めてそれに触れず顧みて他を言ったりして、その意義を務めて小さなものにしようとする。」

 「‥‥しかし、それも次第に通用しなくなってそのイデオロギーは破れるのであるが、それには時間がかかり、その途次それはいろいろな形をとるのである。」

 と、こう、林氏の著書から引用しながら、この友人は、「現在も左翼を続けている多くの者は林氏と同じ経路をたどりながらも、自らの思考回路を整理できず、どこか途中で引っかかっていたり、無理矢理正当化しようと無駄な努力をしたりしている」と、手紙を結んでいる。

 ここらあたり、「サヨクからの脱カルトカウンセリング」にとって、色々ヒントとなる部分だ。ちなみに評者がこのような造語を使うのも、日本の戦後左翼の背景をなしたマルクス主義とは、単なるイデオロギーではなく宗教であり、キリスト教イスラム教に次いで世界史に登場した最後の世界宗教マックス・ウェーバーの定義でいう救済論的世界宗教である、という認識に基づいている。

 科学は真理を追求する。保守やリベラルなどの政治的思想は、正義の実現のための政策を追求する。科学は政治思想ではなく、政治思想も科学ではないから、「真理」の守護者と「正義」の守護者とは、通常は別である。ところがマルクス主義だけは、「科学的社会主義」という別名が示すように、真理と正義が一体化している。

 真理と正義とを兼備することは、前近代に発祥した宗教の特徴であり機能であった。ところがマルクス主義だけは、近代に誕生したにもかかわらず、真理と正義の一体化という救済論的世界宗教の性質を色濃く残している。

 ここに、脱サヨクが容易でない理由がある。単に政策の良し悪しを見て支持政党を変える、といった話とはわけが違うのだ。「善し悪し」の判断を変えるだけでなく、「真偽」の判断をも変えなければならなくなる。世界観全体を変えなければならなくなるのだ。私たち、保守やリベラル等のフツーの人間にとって、自分の世界観と支持政党とは別物だが、左翼の人間にとってはそうでうはないのだから。

 そんな困難を伴うサヨクからの脱カルト運動にとって、林健太郎氏のような貴重な事例を教えてくれただけでも、本書を読んだ価値があったというものです。

 なお、補足すると、この著者は「左から右へ大転換」したのではなく、「左翼全体主義からリベラルへと大転換」したのである。リベラルなどというと、左翼の隠れ蓑に使われてしまって値打ちを落としているが、本来はサヨクとは対極の、自由党員のこと。「リベラル(自由主義者)」という歴史的に由緒ある言葉を、左翼全体主義者による僭称から奪還するためにも、積極的にリベラルを自称したい。2016年3月26日

学術会議は北朝鮮か

■学術会議問題
 数日前、世田谷の家で造園家の方に庭の手入れをして貰っていると、私の職業(元の)について近所から聞きつけていたらしく、日本学術会議会員の選任拒否の問題をどう思うか訊かれた。私は、20年前に某学会の役員をしていた時に、学術会議会員の推薦枠があって、役員会で推薦をしたことを思い出した(どなたを推薦したかは覚えていない)。ところがそれ以後制度が変わり、前任の会員が後任を推薦する仕組みになってしまったらしい。しかも私ども一般の研究者の知らないところでである。前任者が後任を推薦する人事など、北朝鮮である。現在の学術会議は我々一般の研究者を代表するに値する組織とはいえない。だから今回の問題は、どっちもどっちである。そんなことを言うと、ハアー、なるほど、という顔をしていられた。
 造園家の方は新聞に投書したりして言うところの意識高い系なので、たぶん期待された答えとは違っていたかもしれない。ちなみにわたしは、新聞といえばサイエンス欄ぐらいしか見ない、意識低い系です。

アグリッパ・ゆうきの読書日記8『日本共産党vs.部落解放同盟』反差別運動が行き着く隘路と革命運動が行き着く袋小路の共通項

【反差別運動が行き着く隘路と、革命運動が行き着く袋小路の、共通項】

日本共産党vs.部落解放同盟』筆坂 秀世・宮崎 学 (著) (モナド新書) 2010

反差別解放運動にせよ、プロレタリア解放運動(=社会主義革命運動)にせよ、
あらゆる形の解放運動が、現代資本主義社会の繁栄のなかで陥ってゆく落とし穴を、
期せずしてあぶりだすことになっていて、感慨深いものがありました。
 現代の高度資本主義社会は、部落解放運動にせよ、それと理論構造が良く似ている女性解放運動にせよ、あらゆる種類の反差別運動が突きつける諸要求を、平然と呑み込んでさらなる資本主義の発展の肥やしにする程の、受容力を備えているのです。
 ところが、運動の成果が出て差別が解消し始めると、却って慌てるのは運動家や理論家たちです。差別がなくなれば、存在価値を失ってしまうのですから。そんな時、運動家や理論家たちの言う常套句が、「差別が見えにくくなった」です。
 そしてたとえば、本書にも出てくる「自分ら以外はみな差別者」といった、珍理論を入念に仕立てあげることに血眼になって、あげくの果てに理論家同士で「学界」という業界まで作り上げ、業界の存続のために益々、差別されていることを必要とする、という論理の逆立ちが起こるのです。
 評者自身、マイノリティ運動と多少は関わりがあるので、自戒せねばならないと、思ったことでした。

(2015年9月6日)

アグリッパ・ゆうきの読書日記7『べてるの家の「当事者研究」』読むのが辛い(当事者家族として)

【読むのが辛い(当事者家族として)】

べてるの家の「当事者研究」』 浦河べてるの家 (著)、医学書院、2005

 読むのが辛いです。
 特に「爆発系の研究」の章が。
 イラストに、お母様らしい女性の頭にコブが描かれていますね。
 母親を殴ってはいけません。
 私の兄は、二度目の退院後、25年間、両親と同居を続けていましたが、
父が認知症がひどくなって入院したとたんに、
父の介護疲れで寝込んでしまった母に、暴力を振るうようになったので入院させました。
 保健所にも相談したけれど、強制入院は人権問題になるからといって逃げ腰なので、費用はかさむが民間の、精神病患者でも扱うという移送業者を呼んで入院させました。
 私は遠方に住んでいて自分の家族もいますが、二、三日前から親の家に泊まり込み、移送車に同乗して入院手続きを済ませました。
 15年前のことです。一生忘れません。
 その後両親とも世を去り、今の私の願いを正直に言えば、病院が死ぬまで兄を置いてほしいということと、兄より長生きしたいということです。
 成年後見人をしていますが、万一私が先に死ぬようなことがあっても、妻に託すわけにもいかないし、まして娘たちにさせるわけにもいきません。
 精神病院のベット数を減らして地域で暮らせるようにすべきだといった論調を目にするたびに、血の気が引いてしまいます。
 現状では、そんなことをやれば、家族の負担が増えるだけなのに。
 まとまりのつかないことを書いてしまいましたが、他のレビュアーの方も書いていられたように、死に物狂いで病気を茶化そうとしている。それ自体は素晴らしいことで、自己の人格から症状を分離する、外在化の成功例だと思います。
 SSTも役立っているようですね。
 兄弟姉妹の会に出ていた頃、講習があったのですが、日程が合わなくて出られず仕舞いだったことが、今更ながら残念です。
 でも、読んでいるうちに、辛くなってくる本です。

(2015年5月5日)