読書日記(2021/6/9)『人は簡単には騙されない』(ヒューゴ・メルシエ、青土社、2021)で初めて知る毛沢東の正体

■『人は簡単には騙されない:嘘と信用の認知科学』(ヒューゴ・メルシエ、高橋洋訳、青土社、2021)を読む。

 原書は英語だが著者はフランスの認知科学者。関連性理論のスペルベルの弟子らしい。

 というか、そもそも関連性理論を20年前に読んだときには、スペルベルがフランス人だと知らなかったのだ。原書が英語だからだろうか。認知科学の領域では英語嫌いのフランス人でも英語で書くのだろうか。

 それはそうと、いくつか印象に残った部分があるので抜粋したい。一つはラカンの正体についてで、もう一つは毛沢東の正体についての記載だ。まず、後者から始めよう。

大躍進運動を始めるに当たって毛沢東は、ほとんど農業の知識を持っていなかった。‥‥ロシアの生物学者トロフィム・ルイセンコに感化された彼は、作物が理想的な共産主義国家で生きる人びとに似ていると主張した。同じ階級の属する人びとは互いに争ったりはせず、「仲間といるとすくすくと成長し、ともに成長するとより快適に感じる」のだ。そして彼はこの考えをもとに、中国全土の農民が数千年間実践してきた方法より、作物の種をはるかに近接して蒔くよう奨励した。/農業に対する毛沢東のこの見方は、彼にとってではなく、そのやり方を強制された農民にとって惨憺たる結果をもたらした。近接して種を蒔くやり方や、彼が推奨したその他の非生産的な農法は、作物の収穫を激減させた。そのため史上最悪の飢饉が生じ、4000万以上の中国の農民が餓死した。このように毛沢東の愚かな考えがとんでもない災厄をもたらしたにもかかわらず、彼は死ぬまで権力の座に居座りつづけたのだ。(p.342)

  大躍進運動が4000万の犠牲者を出したことは、確か、アメリカの認知心理学者ピンカーの邦訳書にもあったが、その原因が毛沢東のルイセンコ主義にあったことは、初めて知った。

 というか、60年代後半の文革期にはすでに、大躍進運動の惨憺たる失敗は広く知られていたはずなのに、日本のマスコミはまったく報道しなかった。それどころか、今は亡き「朝日ジャーナル」を先頭に、毛沢東礼賛一色だったのだ。

 この風潮は今でも続いている。アメリカやフランスの認知科学者が常識として知っているようなことが、私たち日本の大学系研究者には、さっぱり伝わって来ないのだ。

 コロナ・パンデミックにしても、ウィルスの武漢研究所流出説がいよいよ現実味のある話になってきたにもかかわらず、大手マスコミはだんまりを決め込んでいる始末だ。

 無理もない。大学紛争終焉とサヨク各派の分裂衰退後、活動家の主要な就職先が、一つは大学で、一つはマスコミだったのだから。

 そしてまた、80年代から90年代にかけて、サヨク各派の消滅の時期に、構成メンバーたちは人権・環境・反核といったNPO組織に潜入し、素人の間でたちまち頭角を現して運営の実権を握ってしまったのだから。

 別のブログでも「チベット問題に寄せて」という記事に書いたが、2004年の北京オリンピックに際して、人権派中の人権派である国境なき記者団が体を張って、チベット弾圧の不当さを訴えた。

 ところが日本の人権派は完全な無視を決め込んだのだった。

 そして17年後の現在。北京には、習近平が「遅れてきたスターリン」としての禍々しい巨大な姿を鮮明にしつつある。

 けれども、元々が毛沢東崇拝者だった日本のソフトスターリニストたちに、習近平政権を批判できるはずがないのだ。

 それどころか、サヨクの看板をリベラルに付け替えて、マスコミ界や学術(笑)界での延命を図ろうとしている。おかげで本来の西欧型民主主義に忠実な日本のリベラルは、やむをえず保守派を名乗らざるを得なくなってしまっている。

 そんな情勢の中、偽リベラル、にわかリベラルにリベラルの称号を簒奪されないためにも、わたし自身はリベラルを標榜し続けようと思う、この頃である。

<作業中>

 

 

研究日誌(2021/05/25)フッサール「想像と映像意識」における「比較」という方法

■1905-06年の講義「想像と映像意識」(Husserl, E. (1980). Phantasie und Bildbewusstsein, In E. Marbach (Ed.), Husserliana XXIII. The Hague: Martinus Nijhoff.)の原文を3度目に読み返している。ドイツ語力の不十分さを相変わらず嘆きながら。

 フッサール文献のなかでは、記述が具体的で比較的読みやすいし、私自身の夢の現象学研究の出発点にもしている重要文献だ。

 このほど、現象学研究の方法論としても教えられるところが多いことに気づいた。

Zu nächst halten wir beiderlei Imaginationen möglichst zusammen und suchen uns das Gemeinsame des bildlichen Vorstellens zur Klarheit zubringen. (p. 17)

試訳「まず初めに、これら二つの想像作用を、可能な限り並べて比較しよう。そして、

映像的表象としての共通点を、明るみに出すべく務めよう。」

 来月出る予定の『明日からネットで始める現象学夢分析からコミュ障当事者研究まで』(新曜社)でも書いたが、現象学的方法の二本柱中の1本である本質観取の方法が、まさに、複数事例の比較→共通項と差異項の抽出→普遍化と差異化を通じての分類→最初の直観の精緻化、と進むから。

■想像意識の二重志向性と知覚意識の一重志向性

について述べている最も肝要な段落も抜粋しておく。

In der letzteren [Wahrnehmungsvorstellung] haben wir einen aufgefassten Gegenstand, und dieser ist in der vollsändigen Wahrnehmung der gemeinte. In der Phantasievollstellung haven wir aber zwei Auffassungen aufeinander gebaut, zwei Gegenstände Konstituierend, nämlich das Phantasiebild, das erscheint, und das bildlich dargestellte Object, das Bildsujet, whelches durch das Bild eben dargestellt ist. (p. 24) 

試訳はまたそのうち‥‥。

<工事中>

電子ジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』3号公開のお知らせ

★★★新感覚のオープンアクセスジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』3号(Vol.3)が公開されました。このサイト⇒ISSUES⇒第3号Vol.3から、全記事ダウンロードできます。2号までJ-Stage搭載を終わり、3号の搭載作業中です。

■エディトリアル「心の科学と"synthetic"な認知科学」(荒川直哉)

■研究企画論文「立ち現れる世界の数学的記述についてートポロジーとカオスを援用してー」(小笠原義仁)

■翻訳論文 ミショット著「因果性の知覚ー序論第1章:問題のありか」(渡辺恒夫/訳・解題)

■コメント論文「トポロジーと呼ばれる言語について」(小笠原義仁)

■研究随想「サルトル他者論から現代発達研究へ至る道」(柴田健志)

■書評・ノンフィクション部門

 『ライフスパン~老いなき世界~』(評:重久俊夫)

 『ハイデガーの超政治』(評:渡辺恒夫)

■映像メディア時評

 特別企画「アニメ総論(2010年代を中心に)」(山下敦久)

【特集:京アニ事件の深層)

 「はじめに」(渡辺恒夫)

 「京アニ事件総論」(土居豊)

 「京アニ作品の死生観」(土居豊)

■「こころの科学とエピステモロジーVol,2」奨励賞受賞作発表・選評

 

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『こころの科学とエピステモロジー』誌はオープンアクセスジャーナルです。

「エピステモロジー (épistémologie)」はフランス語圏では、科学的知の批判検討を意味します。心理学を始め、精神医学、認知科学、脳神経科学、人工知能など、こころの科学と総称される領域全般に対して、批判的検討を加えることを主目的とします。詳しくは『創刊準備号』巻頭の「エディトリアル」を参照してください。

原著論文、研究企画、翻訳(以上は査読あり)、ブックレビュー、映像メディア時評、学会・研究会参加印象記、その他随想など幅広いジャンルの投稿を期待しています。投稿は無料です。詳しくは「Call for Papers」の「投稿・執筆規定」をご覧ください。刊行は原則年1回です。

優秀記事には「こころの科学とエピステモロジー奨励賞」(賞金10万円まで)を授与します。

 
 
 

第4号に向けて原稿募集中です。締め切りは、原著論文・翻訳論文・研究企画論文など査読を要する原稿は2022年1月半ば、それ以外は2022年3月半ばを目途にして下さい。

投稿先:epistemologiems@gmail.com(こころの科学とエピステモロジー編集委員会

読書日記(2021/5/3)『当事者が語る精神障がいとリカバリー』で発見したゲームとホメロスの関係/当事者と家族のすれ違い

■『当事者が語る精神障がいとリカバリー:続精神障がい者の家族への暴力というSOS』(YPSヨコハマピアスタッフ協会&影山正子、編著、明石書店、2018)を読む。ためになる一文をみつけたので、忘れないうちに引用しておく。

「ひきこもっていた時、テレビゲームをずいぶんたくさんやりました。一つのゲームをクリアすると、映画の最後みたいに、製作に参加した人たちの名前がずらずらと画面にでてきます。その人数の多さには驚きました。子どもにとって有害だと、事あるごとに言われるテレビゲームですが、本当は多くの人たちが共同作業で作り上げた芸術作品なのではないか、その中に学ぶべきことがないはずはない。と今は思います。実際、大人になってからホメロスなどを少しかじった時、ゲームに引用されているエピソードが多いことに気づき、古典への素地を作ってくれる存在でもあったのだと、感慨深くもありました。」(p.34)

■当事者と家族のすれ違い

 この本は、『精神障がい者の家族への暴力というSOS』(蔭山正子)の続編として、「当事者が前作に書かれた家族の体験に答えるような形で書いている」(p.194)と蔭山さんはいう。

 けれど、悲しいことにすれ違いが目立つ。たとえばその同じ蔭山さんが、ある当事者の手記に書かれた次のような言葉を受けて、こんなことを書いているのだから。

 まず、当事者の文章の引用ーー「‥‥私が思うには暴力に怯えないで、まず相手本人を温かく迎えてあげることの大切さを痛感します。つまり、外出先でのやり場のない気持ちを外出先で対応できない弱者(精神障がい者)なのです。だからこそ帰宅後、母に当たるのです。私はそれは単に暴力ではないと思います。また、暴力に傾注する行為を精神疾患の病状発現で安易に片付ける精神医療関係者の診断も早急過ぎると思います。‥‥」(p.102)

 次が蔭山さんのコメント。

 「確かに、親に暴力をふるったことが生きる力になるという側面はあると思う。しかし、親は身体的暴力を受けないように、なるべく逃げてほしいと私は思う。藤井さんは、親に「暴力に怯えないで」というが、怯えるかどうかは反射的なものであり、意識して耐えられる類のものではない。PTSD(心的外傷後ストレス障害)になってしまえば、いくら当事者を大切に思っていても、顔を見ること、近づくこともできなくなることは少なくないのだ。私が「家族への暴力」というテーマを研究するきっかけになった母親もそうだった」(p.104)。

 このやり取りを読んで、当事者の側に現実認識の不全を感じるのは、私だけではないだろう。いかなる理由であっても暴力が許されなくなってきている現代社会において、このような主張が許容されるとしたらそれは、病状の一環と捉えられているからに他ならないのだから。

■母親の犠牲という問題

 そもそも、精神障がい者家族と言っても、実質的には母親が中心になるのがほとんどだろう。父親は仕事を口実に逃げていることが多いし、兄弟姉妹は自分の家族ができればそっちが第一になるし(私がひところ出ていた兄弟姉妹の会でもそうだった)。語弊を恐れずあえて言うならば、そんな、母親だけが犠牲になって成立するようなリカバリーが、本当にリカバリーの名に値するものだろうか。

 そんなことを思って落ち込んでしまった。蔭山さんの的確な応答が唯一の救いと感じられる。何とか研究と対話とを続けて、母親が犠牲にならなくとも済むような方法とシステム作りを考えていっていただきたいものだ。

付記>母親の体験については、下記のオープンアクセスジャーナル論文が参考になります。 「精神障害者を子にもつ母親の体験ー女性の生活史の観点からー」(佐藤朝子著、日本赤十字看護大学紀要No29、1-10、2006) https://ci.nii.ac.jp/naid/110006199574/

 痛切な事例の連続の末、次のくだりが結論となっています。ーー「本研究を通して、母親にとって子どもが精神病を発症することは、単に恐ろしい体験というだけでなく、自己のアイデンティティを揺るがし、過去ー現在ー未来のつながりを絶たれる体験であることがわかった」(p.10)。

 

研究日誌(2021/5/1)想像について

「「間身体性」の近さと隔たりー間身体性の倫理学の構想(2)ー」(坂本秀夫著、跡見学園女子大学文学部紀要、第54号:125-144、2019)を読むの巻

 久しぶりに読み応えのある日本語論文に出会った。これまで私がいろんなところに書いた、自己の死と他者とは体験様式が似ているというのは、ヘルトのフッサール他者論批判から(いささか強引に)抽出した知見だが、この論文では同じヘルトのフッサール批判を踏まえながらも、まったく異なる知見が示唆されている。
 なにしろフッサールの「想像講義」と「デカルト省察」を結び付けようというのだから。
 フッサール研究でも新しい芽が育ちつつあると見受けられる。
 しかも、間身体性などというからメルロ・ポンティが出てくるのかと思いきや、同じフランス現象学のマルク・リシールが出てくる。リシールは未見だったので、さっそくアマゾンで注文しておいた。
 暫くぶりに他者論に新たな発展(もしくは出直し)がもたらされそうな予感。

■「サルトルの像理論における類比的表象体の実体化について」(荒金直人、慶應義塾大学日吉紀要、フランス語フランス文学、No.53,35-49,2011)を読む。

<作業中>

研究日誌(2012/3/26)「人は身体に生まれるのではない、身体になるのだ」

『身体を引き受ける』(ゲイル・サラモン著、藤高和輝訳、以文社、2019)を読んでいて、見出しのような面白い表現にであったので、抜き書きしておく。

「チャールズ・シェーファーソンは精神分析における身体の構成を、「小さな有機体がその身体を探し求めるという奇妙な神話」と呼ぶ。この神話はその状況誇張された主意主義的な特徴づけを施して「いるけれども、精神分析の内部において、人は身体に生まれない、身体になるのだ、ということは真理であるように思われる。」(p.38)

アグリッパ・ゆうきの読書日記(2021/3/20)『現象学とは何か』を読み、左翼の暴力性について思う

社会学出身の哲学者、西研さんに、『現象学とは何か』(河出書房新社)という共編著を贈られた。

西さん自ら書いた第2章「総論2」を読んでいて、「客観的真理を所持していると信じる者は、ときに暴力的になる」とあるくだりに目がとまった。

前後関係から、これがかつて内ゲバを引き起こしたマルクス主義左翼のことだとたやすく分かる。

なるほど最近は左翼も、かつての暴力革命路線を引っ込めて、鎧の上の衣よろしく「リベラル」の仮面を付けるのに余念がないように見える。

けれども、ふとしたスピーチにも暴力性の片鱗が窺われて、ゾクッとすることがある。

昨年秋にも、精華大の準教授が、ユーミンが安部前首相の退陣を惜しむメッセージを発表したのを掴まえて、ユーミン荒井由実のままで死んでいればよかった、といったことをブログに書き、大学から訓戒処分を受けたというニュースがあった。

精華大と言えば、マンガ家の竹宮恵子さんが学長をやっておられることで知られているが(まだ現役だったかな?)、大学側の処分理由に、死んでいればよかったという暴力性は見過ごせない、といったくだりがあったことが印象に残っている。

処分を受けた准教授は資本論の研究者というから、ガチでマルクス主義者なのだろう。言葉による暴力をもヘイトスピーチとして許容しないほど、リベラル化が進んだ世の中で、マルクス主義左翼が時代に取り残されつつあることの、象徴的事件とみえた。

似たような事件で、6年前の安保法制問題のころ、国会前での反対派の集会で、山口なんとかという当時の北大教授で(たぶん)民主党の顧問だった人が、「安部よ、ぶったぎるぞー」とマイクで叫んだということがあった。

これなど、歴としたヘイトスピーチで、今の時代なら確実に問題視されただろう。

けれども、山口なんとか氏が、民主党はじめ集会の責任者側から処分を受けたという話は、ついぞ聞かない。

後で知ったのだが、この人は日本社会党史の研究者でもあるらしい。
年齢からいっても70年大学紛争の頃は暴力革命を怒号していたクチだと見当が付く。

ちなみに旧日本社会党は、名称から想像されるような社会民主主義政党ではなく、歴としたマルクス主義政党だった。だから社会民主党に党名を変更しようというときに反対論が噴出し、一部は新社会党へ、そして一部は民主党へと流れ込んだのだった。

それはともあれ、いくらリベラルの仮面を被っていても、左翼マルクス主義の暴力性がどこかで顔を出すものなのだ。ちなみに左翼的ヘイトスピーチのターゲットが安部前首相に集中していることに気づく。安部さんにとっては名誉なことと捉えるべきか(笑。

周知のように戦後左翼は、連赤事件からベルリンの壁崩壊と、崩壊の一途をたどった。これを右傾化などと胡麻化さないで、証言を残し、原因を究明し、代案を提起してゆかなければ、またぞろ同じことの繰り返しになってしまうだろう。

以前もこのブログで紹介した「学問の自由と民主主義のための現象学」(寄川条路(編)、稲正樹・榎本文雄・島崎隆・末木文美士・不破茂・山田省三・渡辺恒夫(著)『表現の自由と学問の自由―日本学術会議問題の背景―』(社会評論社、2021)所収)

https://www.shahyo.com/?p=8478 は、そのために少しでも役に立てればという思いで書いた一文に他ならない。