アグリッパ・ゆうきの読書日記(15):『2人だけが知っている世界の秘密』は、極左の成れの果てはユダヤ陰謀論の見本だ

『2人だけが知っている世界の秘密』太田 龍 (著), デーヴィッド・アイク 成甲書房  2009

いまでは著者太田竜の正体を知らない人が多いようだが、
中核・革マルの前身である日本トロキスト連盟の創設者の一人。
70年安保騒動の時には、プロレタリア軍団なる暴力学生集団を率いていた人物。
その後、環境派に転向し、動物解放だの空気や水の解放(笑)を唱えたりしたあげく、
さらに反ユダヤ主義へと、右旋回を続ける。
極左はぐるっと回って極右になるという見本のような人物。
若き日の著者がその中で活動してきた世界同時革命運動や、
晩年の著者が携わってきたユダヤ陰謀論に共通なのは、個人主義自由主義と全く無縁だったこと。
 こんな全体主義者の権化にまどわされてはいけません。

研究ノート/2021

ヤスパース精神病理学原論』

「もうかなりまとまりのない患者はこう述べた。『私には安らぎはこれっぽちおなくなってしまい、何千年もさまよい廻って、知らないうちにくりかえし生れ変っているのだが、こうなるのは世界の創造の力によるのだ。』(p.72)

 精神病理学の事例であるが、輪廻転生の教義を自力で作り出す体験が存在することを、物語っていはしないか。

●アモーダル知覚

 たとえ、Nanay[1]のいうように様相なき知覚がimageryの働きだとしても、そのimagery自体が、フッサールの志向性分類によれば定立的準現前化であって、visualizationのような非定立的準現前化ではないだろう。
 では、次に、なぜ特定のimageryが定立的で(対象の実在性確信を伴い)、他のimagery(visualization)が非定立的(実在確信を伴わない)かというと、知覚野における[知覚=直接知覚、という説に還元されるのだ。(2020、12月24日、国図にて)。

[1]Nanay, B. (2010). Perception and Imagination: Amodal perception as mental imagery. Philosophical Studies, 150, 239–254.

アグリッパ・ゆうきの読書日記14:『幻想の過去ー20世紀の全体主義』(フランソワ・ヒュレ)は日本ではあり得ない大変な労作!

『幻想の過去―20世紀の全体主義』 フランソワ フュレ (著), バジリコ、2007

おそろしくぶ厚いが、著者の(そして多分訳者の)流麗な文体が、分量を感じさせない。
 それでも一気には読めず、時々数章を拾い読みしているが、時々、引用したくなる箇所にであう。今日も、ルカーチを扱った章で次のような箇所に出会ったので引用しておく。
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‥‥それでもコミュニズム信仰は、人々の精神的エネルギーの全面的傾注の対象になることにおいて、他に突出した成果を挙げてきた。それは何よりもコミュニズム信仰が、科学と道徳を一つに結びつけているがごとき外観を呈していたからである。科学的理由と道徳的理由という、元来次元が異なるはずの基本的行動理由が、コミュニズムにあっては奇跡的に結びつけられていたのだった。コミュニズムの闘士は、歴史法則の完成に携わっていると信じながら、資本主義社会のエゴイズムと戦い、人類全体のために戦ったのである(p.197)。
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 この、科学と道徳との見かけ上の結合というコミュニズムの秘密について、評者が属していた学会でも次のような文章を書いたことがある‥‥「そこ[マルクス主義]では往々にして、政治的『正義』が科学的『真理』によって支えられ(たとえば革命の必然性)、科学的真理探究の場に正義の名の下にイデオロギーが介入するという(たとえばルイセンコ事件)、全体主義的悪循環が生じた」(渡辺恒夫「環境問題シンポジウム(1992) から16 年:環境科学の科学基礎論へ向けて」科学基礎論研究,Vol.37, No.1, 49-58, 2009)。
 ひらたく云えば、社会的正義としての革命を、マルクス主義は科学的必然と主張する。科学的必然ではないだろうという科学上の反論を、今度は、革命への反対論は社会的悪である、という論法で批判する。マルクス主義におけるこのような科学的真理と社会的正義の閉じた循環こそ、カール・ポパーが予見したように、あらゆる社会主義国家が全体主義へと帰着するゆえんの論理構造なのだ。
 著者はフランス革命研究の泰斗で、かつてはマルクス主義的立場から研究していたという。本書は、マルクス主義を離脱して、冷静で客観的な視点で、フランス革命からロシア革命、そしてソ連の終焉にいたるまでを、分析している。いろんな点でフランスの特に知識人のマルクス主義に対する傾倒と、日本のそれとは類似しているので、参考になる。ただし日本ではこのような本格的な研究書は、決して現れないだろうところが、違いと言えば違いだが。(2018年)

アグリッパ・ゆうきの読書日記13:極左全体主義勢力と対峙し続けた著者の気概『巨大なる空転 日本の精神科地域処遇はなぜ進まないのか―昭和40年代精神神経学会「混乱」の再検討』

極左全体主義勢力と対峙し続けた著者の気概

『巨大なる空転 日本の精神科地域処遇はなぜ進まないのか―昭和40年代精神神経学会「混乱」の再検討』 中澤 正夫 (著) 風媒社、2017

評者はかねがね日本の地域精神医療体制はなぜこんなに貧しいのかといぶかっていたが、本書で謎が解けた。1970年代初期、当時、新左翼だの全共闘だのと言われて持て囃されていた青年全体主義運動が精神医学会に侵入し、以下に抜粋するような混乱を招来していたからだったのだ‥‥

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 精神神経学会混乱の中で、激しい批判を浴び続けたのは「生活臨床」とその延長上にあった「地域ケア」であった。現在の世界の趨勢を先取りしていた、これらの活動が真っ先に批判されたのである。批判理由は、保健婦や保健所と組んで在宅患者を訪問・援助するのは、「地域保安処分」に他ならない‥‥という理不尽なものであった。「生活臨床」への批判は、二つに分けられる。一つは個人生活「規制」であり、もう一つは「適応論」であるとの決めつけであった。これは、当時西欧でもてはやされた「反精神医学」に由来している。極左急進派は、精神障害を疾患と捉えず、「現社会の理不尽さに抵抗し、挫折した状態」であると主張していた。従って回復像とは、再び戦のバリケートの中に、もどってゆくことである‥‥と主張」(「国家と狂気」精神医全国共闘会議編、田畑書房)していた。(p.117)

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 まったく、精神科医の権威と権力にモノを言わせて患者さんを「バリケートの中にもどってゆく」ような人格に改造するだなんて。究極の全体主義としか言いようがない。

アグリッパ・ゆうきの読書日記12: 精神障がい者家族への偏見が垣間見られる『造反有理 ー精神医療現代史へ』という本

●『造反有理 精神医療現代史へ』 立岩真也  (著)、青土社、2013

精神障がい者家族への偏見が垣間見られる

評者はかねがね、精神科医が家族の蒙る暴力の問題に無関心なのは、患者家族をバカにしているからではないか、という疑いを抱いていたものです。この疑いは、半世紀近く前、東大医学部を中心に青医連なる反精神医学をかかげた、本書でいう造反有理集団の一員らしき医師が、ある雑誌に書いていた記事を読んでいて萌したのでした。それはまさに患者家族をバカにしきった文章だったのです。

 といっても、半世紀近く前の記事なので引用するわけに行かないのが残念と思っていたら、本書を読んでいて、まさに絵にかいたような患者家族蔑視の文章が出ていたので引用します。

 ‥‥「問題は誰がなおしたいかということです。身体病の場合は主として本人がなおしたいのであり、精神病の場合は主として社会がなおしたいのです。」(吉田)という、患者当事者の言葉を引いて、次のように述べているのです。

 「‥‥当たっている。社会と言っても小さな社会もある。家族に発病した人がいて、当惑する。ときにははっきり迷惑であり、疲労困憊してしまう。困るのは近所の人でもあるかもしれない。つきあい、扱いに困ってしまう。自らの身が危ないように感じられること、実際危ないこともある。それで精神病院で面倒を見てもらうことにする。‥‥」(p.300)。

 評者はあっけにとられてしまったものです。「家族に発病した人がいて当惑する」だって?なにノーテンキなことを言っているんだろ。評者の知る限り、わが子が統合失調症の診断を受けると母親は一晩中泣き明かします。そう、「家族に発病した人がいて、頭が真っ白になり、嘆き悲しむ」のです。こんなことも分からないほどに、この、東大大学院卒でブランド大学の社会学教授さんは、人間性を失ってしまっているのでしょうか。その点、最近読んだ『精神障がい者の家族への暴力というSOS』(蔭山正子著、明石書店)では、保健師を長らく勤めていた著者によって、次のように正確にしかも暖かいまなざしで述べられています。

 「子どもが精神疾患に罹患した親が、その衝撃から心的外傷後ストレス障害を引き起こす可能性があることも指摘されているように、家族が精神疾患を患うこと自体が、大きな衝撃となる。また、専門家とのコミュニケーションは必ずしも満足いくものではないことも実態であり、家族には怒りや無力感、自責の念など様々な感情が生じる。愛する家族が精神疾患であるという事実に直面することの衝撃や落胆も大きい。それまでの家族像を失う、喪失体験でもあるだろう。精神障がい者に対する社会的な偏見、そして患者自身(本人)やその家族の持つ内なる偏見が、より孤立した状況を強めてしまうことも少なくない。このような状況の中で、多くの家族が本人と同居し、疲弊しながらも療養生活を支え続けている、というのが日本の現状である」(p.39)。

 まさに、東大病院の精神科医や東大出身の社会学者と言ったエリートたちの、患者家族に対する偏見差別のまなざしにこそ精神障がい者差別の根源があることを確認できた、本書は反面教師です。

 といって、このような偏見差別が、精神病の家族原因論がとっくにすたれた今になっても残っているのも、家族当事者からの声が少なすぎるということがあるのでしょう。もちろん、蔭山氏の著書が家族会の協力の下に書かれたことに見るように、家族会の活動はあります。精神分裂病の名称を統合失調症に変えさせたのは、その最大の成果と言えます。けれども、とかくロビー活動に偏して与党代議士と仲良くなったりして、本書の中でも揶揄の対象になっているように、ジミンガージミンガー攻撃のターゲットになりやすい。必要なことは、家族当事者としての研究の積み重ねです。親にはそんな余裕がないので、可能性があるとしたら兄弟姉妹です。評者の知っている範囲では、精神障がい者兄弟姉妹には、PSWを目指す人が割といて、その中から家族当事者研究が出てくることが期待されるのですが、現実はそう甘くない。研究は顕名でしかできないから、自分自身の家族に及ぼす影響を考えなければならない。それでも知的障がい者の兄弟姉妹当事者研究は始まっていますが、研究成果を出版しても当人に読まれる気遣いがないからできることでしょう。

 でも、こんな言い訳ばかり言っていても進展しないので、誰かがやらなければならない。一つの方法は、インターネット上の兄弟姉妹のサイトをテクスト・データとすることです。「人生めちゃくちゃにされたー」といった血を吐くような叫びなど、深刻な事例もあります。冒頭に引用した著者のノーテンキな発言も、親、特に母親にはまったく当てはまらないが、兄弟姉妹になら当てはまるところもあります。所詮、兄弟は他人の始まりですから。

アグリッパ・ゆうきの読書日記11:『精神障がい者の家族への暴力というSOS』で考える家族への差別

『精神障がい者の家族への暴力というSOS――家族・支援者のためのガイドブック』 ( 蔭山 正子 (著, 編集) 、明石書店 2017

【精神障がい者差別の背景にある精神障がい者家族への差別が見えてきた】
世界的に見ても画期的な本です。それは「はじめに」の次のくだりを読むだけでわかります。
‥‥精神疾患は、未だに多くの一般市民にとって「よくわからない」病気である。「怖い」「わからない」ことからくる不安は、精神障がい者を社会から排除するという施策につながってしまったのだろう。「怖い」と思う主な理由は暴力である。ゆえに、暴力の問題は、精神保健医療の核心とも言える。/欧米では、社会防衛的観点から犯罪歴や他人への暴力について多くの調査を行ってきた。しかし、世界が誤っていたことがある。精神障がい者による暴力は、外で見ず知らずの他人に向かうことは稀で、多くは家庭の中で家族に向かう。‥‥暴力の問題は、家族への暴力に焦点が当てられてしかるべきだが、家族への暴力に関心が払われることはなかった。/本書が扱う、精神障がい者から家族への暴力については、世界的に研究が少なく、「無視されている研究領域」と言われている。それは、社会防衛ばかりに注意を払っていた社会の問題であり、精神障がい者への偏見を助長させたくないために家族や関係者が暴力の事実に蓋をしてきた問題でもある。家族への暴力の発生率を示した研究は、世界で7つしかない。私たちの研究がその中の一本だ。‥‥/‥‥以前、保健所で保健師としてご家族から精神障がいの方を治療につなげる相談を多く受けてきた。その中でご家族が暴力を受けていることを知っていた。しかし、今の制度では家族をすぐに助けることはできないとあきらめ、「危険なときには110番してください」「逃げて下さい」と言うのみだった。家族の凄まじい現状に積極的に向き合うことを避け、見て見ぬふりをしていたとも言える。この研究では、多くのご家族がインタビューで過去の辛く思い出したくない経験を話し、またアンケート調査に回答してくれた。調査の説明をした際に、ある父親から「今まで助けを求め走り回っても解決できなかったことをあなたに解決できる訳がない!無意味だ!」と激しい剣幕で言われた。その父親がどれほどの思いで戦ってきたのかが痛いほど伝わってきた。私は、暴力の問題を知れば知るほど、その問題の深刻さを目の当たりにすることになった。/家族への暴力の問題に取り組み、分析と議論を積み上げていくと、問題の核心が見えてきた。それは驚くべき結果だった。これまで家族に向く暴力の問題は、障がい者への配慮として扱われなかった側面があった。つまり障がい者を加害者として扱ってはいけないという配慮だ。しかし、結果は反対だった。障がい者はむしろ被害者だった。‥‥社会での生きづらさからくる苦悩やトラウマが、傍にいる家族への暴力となって表出されている側面があったのだった。精神医療や地域支援あるいは社会の至らなさが障がい者を苦しめ、家族を追い込んでいた。‥‥
 引用が長くなりましたが、あとは読んでいただくことを願うばかりです。評者個人の感想としては、この本の問題提起を超えて、精神科医が家族の蒙る暴力の問題に無関心なのは精神科医が患者家族をバカにしているからではないか、という疑いを投げかけたい。この疑いを評者は、半世紀前、東大医学部を中心に青医連なる反精神医学をかかげたエリートの反体制(笑)集団の一員の医師が、ある雑誌に書いていた記事を読んでいて抱いたのでした。それはまさに患者家族を小バカにしきった文章だったのです。
 といっても、半世紀前の記事なので引用するわけに行かないのが残念と思っていたら、たまたま手にした『造反有理ーー精神医療現代史へ』(青土社、2013)という、東大での社会学者の書いた本に、まさに絵にかいたような患者家族蔑視の文章が出ていたので、引用します。
 ‥‥「問題は誰がなおしたいかということです。身体病の場合は主として本人がなおしたいのであり、精神病の場合は主として社会がなおしたいのです。」(吉田)という、患者当事者の言葉を引いて、次のように述べているのです。
 「‥‥当たっている。社会と言っても小さな社会もある。家族に発病した人がいて、当惑する。ときにははっきり迷惑であり、疲労困憊してしまう。困るのは近所の人でもあるかもしれない。つきあい、扱いに困ってしまう。自らの身が危ないように感じられること、実際危ないこともある。それで精神病院で面倒を見てもらうことにする。‥‥」(p.300)。
 評者はあっけにとられてしまったものです。「家族に発病した人がいて当惑する」だって?なにバカなことを言っているんだろう。評者の知る限り、わが子が統合失調症の診断を受けると母親は一晩中泣き明かします。そう、「家族に発病した人がいて、頭が真っ白になり、嘆き悲しむ」のです。こんなことも分からないほどに、この、立岩とかいう東大大学院卒でブランド大学の社会学教授さんは、人間性を失ってしまっているのでしょうか。その点、本書『精神障がい者の家族への暴力というSOS』では、次のように正確にしかも暖かいまなざしで述べられています。
 「子どもが精神疾患に罹患した親が、その衝撃から心的外傷後ストレス障害を引き起こす可能性があることも指摘されているように、家族が精神疾患を患うこと自体が、大きな衝撃となる。また、専門家とのコミュニケーションは必ずしも満足いくものではないことも実態であり、家族には怒りや無力感、自責の念など様々な感情が生じる。愛する家族が精神疾患であるという事実に直面することの衝撃や落胆も大きい。それまでの家族像を失う、喪失体験でもあるだろう。精神障がい者に対する社会的な偏見、そして患者自身(本人)やその家族の持つ内なる偏見が、より孤立した状況を強めてしまうことも少なくない。このような状況の中で、多くの家族が本人と同居し、疲弊しながらも療養生活を支え続けている、というのが日本の現状である」(p.39)。
 まさに、東大病院の精神科医や東大出身の社会学者と言ったエリートたちの、患者家族に対する偏見差別のまなざしにこそ精神障がい者差別の根源があることを、気づかされたのでした。2017年7月20日

アグリッパ・ゆうきの読書日記10:ブルデュー著『ホモ・アカデミクス』は、学界におけるマルクス主義支配の過去という日仏共通のテーマへの手がかりを与える

『ホモ・アカデミクス 』ピエール・ブルデュー (著), 石崎 晴己 (訳)、藤原書店、1997

標題のようなテーマへの手がかりが散りばめられている。

そんな一節を、忘れないうちに引用しておこう。

「‥‥学問的に時代遅れになった生産者たちが、学問的業績に対する政治的批判という手段に訴えて、自分を凌駕する者をこちらが凌駕しているのだという幻想を、自分に、そして自分の同類たちにも与える、そういう政治的批判の形態などはあまさず調査する必要がある。歴史学におけるマルクス主義の現状ーーこれまでになされたそれの社会的使用法の実際の中で見られる限りでのーーは、『人民』や『民衆的なるもの』へのすべての参照によって、学問的にもっとも貧しい者たちが、学問的判定者たちに対する政治的判定者に自らを仕立てあげるための、最後の手段という機能をしばしば持っていることを見過ごすなら、理解できないであろう。」(p.60)

 思い起こすのは大学入学した当時のこと、革命(笑)への隊列に加われと勧誘に来たマルクス主義系の学生運動家に、自分は分析哲学をやりたいが革命が起こっては学問の自由は守れそうもない、と言って断ったところ、「人民に役に立たないような学問の自由は守る必要がない」と凄まれたことだ。その後、評者は哲学の道には進まなかったが、半世紀たった今、分析哲学の隆盛とマルクス主義哲学の凋落どころか消滅ぶりを横目でも見ることができる。まったく、当時、学園紛争の頃すでに、マルクス主義は学問的には最も貧しくなってしまっていたにもかかわらず、「人民」を引合いに出すことで大威張りしていたのだと分かる。その後、マルクス主義が凋落してからも、「被抑圧者」を引合いに出して威張ろうとする風潮は、フェミニズムや各種の反差別運動に引き継がれて、いまだに跡を絶たない。

 まだそこまで読んでいないが、本書の最終章には、1968年のいわゆる5月革命の分析が加えられている。日本でも必要なのは、同時代の「全共闘新左翼」運動なるものの冷静な分析ではないだろうか。二度とあのような、青年全体主義運動を再来させないためにも。そして、分析研究の結果がまとまったら、これもフランスの研究者が出している『共産主義黒書』にならって、『全共闘黒書』という本にするのだ。

(2017年3月22日)