研究日誌(2022/6/23)フッサールの訳語について(第2弾)

<■研究日誌(2022/4/15)フッサールの訳語について>
の続編を書く。

まず、便宜のため4/15版を引用しておく:

フッサールの訳語「共現前」について

間主観性現象学Ⅱーその展開』にはこうある。

訳注〔45〕Appräsentation  本書第一部訳注〔27〕にあるように、「共現前Appräsentation」もKompräsentationと同様、「現前Präsentation」の対概念である。従来、Appräsentationに対して「間接現前」や「付帯現前化」(『現象学事典』)といった訳語が使われてきたが、「間接(的)」や「付帯(的)」とするのは必ずしも適切ではないと思われる。「現前」がそのうちに分裂を含み、「原現前」と「共現前」の協働-絡み合いによって成立しているという意味をこめて、できるだけシンプルに「共現前」と訳した。以上、『その方法』第二部の訳注〔2〕、三六〇頁以下をも参照。(『間主観性現象学Ⅱーその展開』浜渦・山口/監訳、ちくま学芸文庫、2013、p.179)

とあるので、『間主観性現象学Ⅰーその方法』の訳注該当部分を参照すると:

訳注〔2〕Präsentation und Kompräsentation 前述(本書第一部訳注〔50〕断章)の対語と同じ意味の対語である。この前後の編者注からも分かるように(‥‥)、フッサールはこのテキストで、現前もしくは「原現前Urpräsentz」と「共現前」との対比を表す語に迷いが見られ(原注3を参照)、「Kompräsenz/Kompräsentation」という語から次第に「Appräsenz/Appräsentation」へと移っていったことが分かる(両者を日本語で訳しわけるのは困難)。従来、Appräsentationに対して「間接現前」や「付帯現前化」(『現象学事典』)といった訳語が使われてきたが、「間接(的)」や「付帯(的)」とするのは必ずしも適切ではないと思われる。「現前」がそのうちに分裂を含み、「原現前」と「共現前」の協働-絡み合いによって成立しているという意味をこめて、また、このテキストに見られるように、初めはKompräsentationという語を使っていったのを次第にAppräsentationという語に変えて行ったという経緯もあり、できるだけシンプルに「共現前」と訳した。(『間主観性現象学Ⅰーその方法』浜渦・山口/監訳、ちくま学芸文庫、2012、pp360-361)

 けれども、ともに「共現前」と訳してしまっては、フッサールがなぜ、Kompräsentationという語をAppräsentationという語に変えて行ったかの理由を不問にしたままになってしまおう。むしろ、共に現前してしまうのではなく、現前へと向かうという意味で、「向現前」とすべきではないか。

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以下が「第2弾」の内容:

■Appräsentationの由来を求めて、『イデーンⅡ-1』(立松弘孝・別所良美訳、みすず書房、2001)のドイツ語原文を読む。

すると、s.162にこうでている(カッコ内はみすず版訳)。
§44. Urpräsenz und Appräsenz(原的な現前と付帯的な現前)

次の<§45. Animalien als urpräsente Leibkorper mit appräsenter Innerlichikeit>にも、Appräsenz, appräsentation 系の語が頻出する。
s.165には、一文中に、AppräsentationとKompräsenzが共在する珍しい例がある。長いので引用はしないが。

s.166の共在例は引用に値する。

Das alles ist für mich selbst in Kompräsenz zusammengehörig gegeben und geht dann in die Einfühlung uber: die tastende Hand des Anderen, die ich sehe, appräsentiert mir die solipsistische Ansicht dieser Hand und dann alles, was in vergegenwartigter Kompräsenz dazugehören muss.(L7-12)

(これらのことはすべて私自身にとっては、共属しあい共現前して与えられており、そしてさらに感情移入へ移行する。他人の手が何かに触っているのを私が見ている場合、私にとってその手はその手自身の独我論的な外観(Ansicht)を付帯的に現前化し、そしてさらに、準現前化された共現前の様態でそれに属しているはずのものもすべて付帯的に現前化することになる(p.196-197)。)

 やはりこの例では、Kompräsenzとappräsentiertを、共に、共現前、共現前化された、等と訳したらまずいだろう。異なる語を使うのは理由があるように思われる。Appräsentation系の語は感情移入の語の後に出てくる。つまり他者に関する共現前を特に意味する語としてAppräsentationが出てくるのではないか。

 

研究日誌(2022/6/15)マッキンタイアの物語論的人格同一性(personal identity)について

■A.マッキンタイア『美徳なき時代』(篠崎栄訳、みすず書房、1993(MacIntyre, A. After Virtue. University of Notre Dame Press, 1984))より引用する。

 「‥‥デレク・パーフィットと他の論者は最近、厳密な同一性の規準と人格性の心理的連続性との間の対照に注意を喚起してきた。前者は〈全てか無か〉の事柄であり‥‥演じられる物語での登場人物としての人間にとって決定的なことは、心理的連続性の材料しか所有していないのに、厳密な同一性の負託に応える能力を必要とするという点である。‥‥そうした〈私〉の同一性ー-またはその欠如ー-を自己の心理的連続性あるいは不連続性の上に基礎づけることは不可能である。」(p.265-266)

「‥‥歴史の中の登場人物たち(キャラクターズ)も人格(パーソン)の集合ではなく、〔逆に〕〈人格〉という概念が、歴史から抽象された、〔もともとは〕〈登場人物〉という概念なのである。」(p.266)

「‥‥人格の同一性とは、物語の統一性が要求する登場人物の統一性によって前提されている同一性(アデンティティ)に他ならない。」(p.267)

「〈人格の同一性〉という観念を、〈物語〉〈理解可能性〉〈申し開き能力〉という観念から独立に切り離して解明しようとしても、その試みはすべて失敗せざるをえないということだ。実際、すべて失敗してきたように。」(p.268)

 この最後の引用は分かりにくいので、日本語の論文から引用すると(「人格の同一性に対するマッキンタイアの物語論的アプローチについて」(石毛弓、倫理学研究/43 巻 136-147,2013)、

「マッキンタイアは、人格の同一性に関連するものとして「物語(narrative)」「理解可能性(intelligibility)」「申し開き能力(accountability)」の三つのキーワードを挙げる。‥‥この物語は諸徳の実践という目的をもつとされるから、物語の主体はその目的に向かう運動として自己の行為の意味や意義を理解することが可能だとされる。さらにその主体は、自分の物語について他者にその意味や意義を説明することができる。物語の主体であるということは、その物語全体や各エピソードについての他者からの「なぜ」に対して「なぜなら」と答えることができ、行為における「だれが」との問いに「自分が」と責任を負うことができるということなのだ。」(p.140)

「‥‥主体によるエピソードの関連づけがなされうるかぎり、その主体が異なる時間においてどのような変容を被ろうとも、自己の物語の登場人物としての同一性は保たれる。経験記憶の有無やその程度ではなく、行為に対する物語・理解可能性・説明責任が人格の同一性の軸とされているのである。」(p.140)

⇒ここでどうしても、転生の場合はどうか?と問いたくなってきてしまう。

 

研究日誌(2022/5/31~)可能世界論で途切れ途切れに思うこと

■『ディヴィッド・ルイスの哲学』(野上志学青土社、2020)を読み、人文死生学の展開にとって役に立ちそうな箇所を書き留めておく(正確な引用ではないが)。

p.52 対応者理論による事象的可能性の分析。

 xが可能的にFである(◇Fx)のは、ある世界wが存在し、wにおけるxの対応者がFであるときであり、そのときに限る。(ここでwにおけるxの対応者とは、wに含まれるもののうち、ある重要な点でxに類似しているものである。)

 ⇒(コメント記号;以下略)「ある重要な点で」を「私がwにおけるA(現実世界では他者の一人)であること」としてみよう。言いかえれば、x=渡辺恒夫だが、wにおいてはx=not渡辺恒夫である。それ以外の点ではwは現実世界と同一である、とするのだ。

p.62-63 「‥‥ルイスの議論によれば、現実世界においてはすべての時点において緑の人格は緑の身体に宿っており、人格と身体の同一性テーゼによって、緑の人格と緑の身体は同一である。しかし、ある世界wが存在し、wにおいてある時点tで緑と直子の人格が入れ替わっているので、時点tでは緑の人格的対応者と緑の身体的対応者は同一ではない。それゆえ、緑の人格と緑の身体の同一性は必然的ではない。それゆえ、現実世界ではそれらが同一であるにもかかわらず、必然的にそれらが同一ということはない。こうして、緑の人格と緑の身体は同一性の必然性テーゼの反例となる[32]。

[32]さらに、同一性の必然性を否定し、偶然的同一性を支持する古典的な例としては、Gibbard1975の「ランプルとゴリアテの例」がある。また、OPW第4章第5節にも類似の議論が見出される。Nooman2013第4章も参照(p.271)。

p.226

  私が誰か別の人間だったかもしれないという可能性について考えてみよう。ここに私がいる。そこに哀れなフレッドがいる。〔‥‥〕私はいま、私が哀れなフレッド であるという可能性について考えており、それが実現されていないことを喜んでいる。〔‥‥〕この世界と全く同じようなある世界において自分がフレッドである可能世界に考えているのである。(OPW,p.231,邦訳,p.263)

→いいところまで来ている! 

ところが「問題の可能性は、私にとっての可能性であって、世界にとっての可能性ではないのである。」(265ページ)と、奇妙なことを言い出す。それは、「すべての可能個体が可能世界であるわけではない」(262ページ)だからだそうだ。

が、それなら可能世界を想定する意義もなくなってしまうだろうに!

オンラインジャーナル「こころの科学とエピステモロジー」 2022年5月25日 第4号公開!

■電子ジャーナル

こころの科学とエピステモロジー

2022年5月25日

第4号 Vol.4, 2022

公開! 続いてJ-Stage公開準備中。創刊準備号~第3号の各記事は、各ISSUE目次からダウンロードできる他、J-Stageからのダウンロードが便利です。

第4号の主な内容

・原著論文「間身体性から見た対面とオンラインの会話の質的差異」(田中彰吾・森直久)

・原著論文「Indigenous Psychologyの視座からみる大正期の雑誌『変態心理』」(黄信者)

・翻訳論文 リボー著「『哲学評論』創刊の辞、および『経験的立場からの心理学』(ブレンターノ著、1874)書評」(渡辺恒夫/訳・解題)

・研究随想「言語としてのトポロジーについて:トポロジカルに記述された世界の変容」(小笠原義仁)

・コメント論文「「他者問題を正しく立てる」とはどういうことか?:渡辺恒夫からの批判に答える」(西研

・コメント論文「Primitive Chaos とは何か」(小笠原義仁)

・随想 最近研究事情瞥見「ポスト木村敏離人症論をめぐるポリフォニー:松下姫歌『心的現実感と離人を起点として」(芹場輝)

書評・フィクション部門

・『クララとお日さま』(評:渡辺恒夫)

映像メディア時評【特集)

・「「京アニ作品の死生観」論 その1:ミステリーアニメの死生観〜涼宮ハルヒとAnother、そして氷菓」(土居豊)

・「心の科学の基礎論研究会報告・要旨」

・小特集「人文死生学」原稿募集のお知らせ

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『こころの科学とエピステモロジー』誌はオープンアクセスジャーナルです。

「エピステモロジー (épistémologie)」はフランス語圏では、科学的知の批判検討を意味します。心理学を始め、精神医学、認知科学、脳神経科学、人工知能など、こころの科学と総称される領域全般に対して、批判的検討を加えることを主目的とします。詳しくは『創刊準備号』巻頭の「エディトリアル」を参照してください。

原著論文、研究企画、翻訳(以上は査読あり)、ブックレビュー、映像メディア時評、学会・研究会参加印象記、その他随想など幅広いジャンルの投稿を期待しています。投稿は無料です。詳しくは本号(Vol.4)末尾に掲載の「投稿執筆規定(2022年版)」をご覧ください。刊行は原則年1回です。

優秀記事には「こころの科学とエピステモロジー奨励賞」(賞金10万円まで)を授与します。

第5号に向けての原稿募集を開始しています。要査読論文は2022年末締め切り。書評等それ以外は2023年2月締め切り。

投稿先:epistemologiems@gmail.com(こころの科学とエピステモロジー編集委員会

【ゲストエディター制による小特集「人文死生学」の企画のお知らせ】
 本誌では、新山喜嗣氏(秋田大・精神医学)をゲストエディターに迎え、5号での小特集「人文死生学」の実現に向けて準備中です。原著論文の字数上限は32000字(400字詰80枚相当)で、要査読論文の締め切りを2022年11月末日とすること以外は、すべて本誌の投稿・執筆規定に準じます。詳しくは本号記事「小特集「人文死生学」原稿募集のお知らせ」参照。
 なお、小特集以外の一般原稿も通常通り受け付けます。

研究日誌(2022/5/24)心身スーパーヴィーニエンス説のダメっぷり

■『物理世界のなかの心』(ジェグオン・キム (Jaegwon Kim)、太田雅子訳、勁草書房、2007)を読む。

世評高い本だが、物(脳神経系)への心のスーパーヴィーニエンスを擁護する本だと思ったら、いかにスーパーヴィーニエンスが駄目かを論証する本だった。のっけから(第一章から)、こうある。

「だから、スーパーヴィーニエンスは形而上学的に「深い」関係ではないのだ。それはただ性質共変化のパターンについての「現象学的」関係に過ぎず、ことによるとそのパターンはもっと深い依存関係の現れであるかもしれない。もしこれが正しいなら、心身スーパーヴィーニエンスは心身問題を提起するものであり、心身問題を解決するものではないのである。」(p.20)

 そして、最後の章の最後の6節では、こうある。

「したがって、物理主義から伸びるすべての道は最終的には同じ一点、心的なものの反実在論に収束する。」(p.167)

「とにかく、心身問題をめぐる議論を続けるうちにだんだん明らかになってくるのは、性質二元論や非法則的一元論、非還元的物理主義のような、今のところ人気のある穏健な立場は、強固な物理主義に簡単に耐えうるものではないということである。真摯な物理主義者であると同時に非物理的な事物や現象にお付き合いできると思うのは無意味な夢であるとわたしは思う。」(p.168)

「けれども、全面的な二元論のほうが心的なものを救うためのもっと実在論的な機会を提供すると結論するのは時期尚早だろう。われわれの多くにとって二元論は未知の領域であり、どのような可能性や危険がこの暗い洞窟に潜んでいるかはほとんどわからないのだから。」(ibid.)

 これが、この本全体の末尾である。これが、「悪い知らせ」ということになっているが、私は物理主義者だったことが一度もないので、悪い知らせとは思わない。むしろ、物理主義からの自己解放には道理があるということを、当の物理主義者によって保証してもらったようなものだ。

アグリッパ・ゆうきの読書日記(2022/5/2):『真説 日本左翼史:その源流1945-1960』池上彰・佐藤優(講談社、2021)

続編の『激動 日本左翼史 1960-1972』を先に読んだが、厳密に同時代人である評者にとっては知っていることばかりで余り面白くなかった。それに対してこちらは、評者が小中学生の頃で、うっすらと記憶にある程度しか知らないので、結構ためになった。
 そもそも佐藤優がこの本を構想したのは、「現在の世界で顕になっている社会の機能不全に対して、人々が左翼的な思想に再び注目し、左翼勢力が台頭する可能性は非常に高いと思っている」(p.17)ので、その日にそなえ、左翼とは何だったのかについて、歴史的に明確にしておかなければならないからだという。
 実は最初と最後の章しかちゃんと読んでいないが、とりあえず記憶にとどめておきたい個所を引用し、必要に応じてコメントておく。
「佐藤 あるいは「左翼」と「リベラル」が全然別の概念だということも理解されていません。本来はリベラル(自由主義者)といえば、むしろ左翼とは対立的な概念です。たとえば、左翼は鉄の規律によって上から下まで厳しく統制され、またそれを受け入れるものであったのに対して、リベラルは個人の自由を尊重する思想ですから、そうした規律を嫌悪します。でも今では、左派とリベラルがほとんど同じもののように考えられています。」
「池上 ただ、そこには「左翼」と呼ばれることを嫌った「オールド左翼」たちが、自らを「リベラル」と称するようになったことも背景にあるかもしれませんが。」(p.20)
⇒どうせそんなことだろうと思っていたが、よくぞ書いてくれたものだ。ここで、一歩進んで、リベラルの仮面をかぶったオールド左翼のことを、吉本隆明流の言い方を借りて、「偽リベラル・ソフトスターリニスト」と呼ぶことを提案したい。オールドだろうが新だろうが、左翼の行きつく先は習近平の道、つまりスターリン主義しかないのだから。
「佐藤 この左翼、つまり急進的に世の中を変えようとする人たちの特徴は、ます何よりも理性を重視する姿勢にあります。/理性を重視すればこそ、人間は過不足なく情報が与えられてさえいればある一つの「正しい認識」に辿り着けると考えますし‥‥」
「池上 十九~二0世紀の左翼たちが革命を目指したのも、人間が理性に立脚して社会を人工的に改造すれば、理想的な社会に限りなく近づけると信じていたからですね。」
「佐藤 そうです。ですから現在一般に流布している「平和」を重視する人々という左翼観は本来的には左翼とは関係ありません。」(p.21)
⇒理性信仰は確かに、マルクス主義以前のユートピア社会主義(日本では意図的に空想的社会主義と誤訳されている)、たとえばサンシモン主義にも共通している。マルクス主義共産主義)の特徴は、理性信仰を科学信仰まで突き詰めたところにある。だからマルクス主義では政治的正義が科学的真理と一体化してしまう。これが、他の社会主義、たとえば西欧流の社会民主主義と異なり、マルクス主義的国家が全体主義へと帰結するゆえんなのだ。
日本共産党の本質はスターリン主義だ。資本主義の構造悪を断ち切ろうとするためにスターリン主義という別の構造悪を導入することは避けなくてはならない。」(佐藤優 「おわりに」p.229)
日本共産党だけでなく、あらゆるマルクス主義結社がスターリン主義に行きつくことこそ、戦後世界の学んだ教訓ではなかったか?

研究日誌(2022/4/15)フッサールの訳語について

フッサールの訳語「共現前」について

間主観性現象学Ⅱーその展開』にはこうある。

訳注〔45〕Appräsentation  本書第一部訳注〔27〕にあるように、「共現前Appräsentation」もKompräsentationと同様、「現前Präsentation」の対概念である。従来、Appräsentationに対して「間接現前」や「付帯現前化」(『現象学事典』)といった訳語が使われてきたが、「間接(的)」や「付帯(的)」とするのは必ずしも適切ではないと思われる。「現前」がそのうちに分裂を含み、「原現前」と「共現前」の協働-絡み合いによって成立しているという意味をこめて、できるだけシンプルに「共現前」と訳した。以上、『その方法』第二部の訳注〔2〕、三六〇頁以下をも参照。(『間主観性現象学Ⅱーその展開』浜渦・山口/監訳、ちくま学芸文庫、2013、p.179)

とあるので、『間主観性現象学Ⅰーその方法』の訳注該当部分を参照すると:

訳注〔2〕Präsentation und Kompräsentation 前述(本書第一部訳注〔50〕断章)の対語と同じ意味の対語である。この前後の編者注からも分かるように(‥‥)、フッサールはこのテキストで、現前もしくは「原現前Urpräsentz」と「共現前」との対比を表す語に迷いが見られ(原注3を参照)、「Kompräsenz/Kompräsentation」という語から次第に「Appräsenz/Appräsentation」へと移っていったことが分かる(両者を日本語で訳しわけるのは困難)。従来、Appräsentationに対して「間接現前」や「付帯現前化」(『現象学事典』)といった訳語が使われてきたが、「間接(的)」や「付帯(的)」とするのは必ずしも適切ではないと思われる。「現前」がそのうちに分裂を含み、「原現前」と「共現前」の協働-絡み合いによって成立しているという意味をこめて、また、このテキストに見られるように、初めはKompräsentationという語を使っていったのを次第にAppräsentationという語に変えて行ったという経緯もあり、できるだけシンプルに「共現前」と訳した。(『間主観性現象学Ⅰーその方法』浜渦・山口/監訳、ちくま学芸文庫、2012、pp360-361)

 けれども、ともに「共現前」と訳してしまっては、フッサールがなぜ、Kompräsentationという語をAppräsentationという語に変えて行ったかの理由を不問にしたままになってしまおう。むしろ、共に現前してしまうのではなく、現前へと向かうという意味で、「向現前」とすべきではないか。

 

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