研究日誌(2026/5/11)「かけがえの無さ」について

■『滅亡するかもしれない人類のための倫理学』(稲葉真一郎)より。

「・感覚の主観性とは、突き詰めると、「人は一人ひとり、互いに比較することができない唯一無二の存在である」ということを意味するのではないか。そして道徳とは、そのような、それぞれの個人の唯一無二性、かけがえのなさの尊重をその根本的な基礎とするものではないか?」(p.23)

コメント>この著者には悪いが、かけがえのなさ(唯一無二性)のパラドックス構造が露呈してしまっている。これでは、唯一無二性を備える存在が、「それぞれの個人」という表現が示すように、複数あることになって、唯一無二ではなくなってしまうではないか!これがまさに、人間的世界経験の根源的パラドクス構造だというのに‥‥

アグリッパ・ゆうの読書日記(2026/4/18)『意識はどこから生まれてくるのか』(続)

■『意識はどこから生まれてくるのか』(ソームズ、青土社、2011)を完読。

意識のハードプロブレムへの反論として、認知神経科学者の手になるものの中では最も誠実なものだが、どこかに落とし穴があるようだ。

最終章「心を作る」から印象に残った部分を抜粋しておく。
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‥‥ここで問題になるのは、人工的な自己がこのような内部状態にある自分を感じているかどうか、あるいはいつ感じているかをどのようにしてしることができるか、ということです。そうやってそれを証明するのでしょう?

 何かについて現在の一般的な見解を大まかに把握したい場合、当然ながら見るべき場所はウィキペディアでしょう。そこで人工意識について書かれていることを紹介します。

 クオリア、あるいは現象的意識は、本来、一人称的な現象である。さまざまなシステ  ムが機能的な意識と相関のある行動のさまざまな兆候を示すかもしれないが、三人称的なテストで一人称の現象的特徴に迫ることができると考えられる方法はない。そのため、そして意識の経験的な定義がないため、人工意識に意識があることを示すテストは不可能かもしれない(26)。

 これは大きな挑戦です。つまり再び、他者の心という問題となります。前にも述べたとおり、私たちは、何か実用的なこと、目標に到達したことを知らせる観察可能な基準を達成するようなことを行うAI装置を、工学的に作ろうとしているわけではありません。私たちが作り出さねばならないシステムには、生き残ること、そして特に、予測できない環境で生き残ること以外の客観的な目標はありません。しかし、個の客観的な基準を達成したとしても、システムがそれを行うために感じを用いたかどうかをどうやって知ることができるでしょうか。それこそ私が予期していることで、私はシステムが感じを使うだろうと予測しています。しかし、感じとは本来、主観的なものであり、そのためウィキペディアが淡々と述べているように、その存在を客観的に証明する「考えられる方法はない」のです。
 ここで再び科学のルールが救いとなります。科学は絶対的な証明を必要としません。‥‥(pp.362-363)

‥‥この証拠は、(人工的に損傷や刺激を与えたりするなどの)因果関係の操作や、上記のような記録技術を用いて交差検証することができます。
 当然のことながら、これらはすべて、他者の心という問題に左右されることになります。しかし、それはあなたと私にも同じことが言えます。あなたが意識を持っているかどうか、私には絶対にわかりません。最終的には、研究結果の収束と証拠の重さに帰結します。水無脳症の子どもや人間以外の動物が経験の主体であるかどうかについて、今日コンセンサスが得られていないのと同様に、この点についてもコンセンサスが得られることはないでしょう。これらの生物に意識があることを受け入れない人は、どれだけ裏付けのある証拠が出てきても、人工的な「存在」が何かを感じるということを受け入れることはないでしょう。‥‥私自身の見解を言えば、もし私が、人工的な意識が意識を持っているかどうかについて、実質的に決められない〔/否定できない〕 ということになれば、それだけで驚くべき成果と言えるでしょう。(p.369)
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 結局、意識のハードプロブレムの次に来る難問とは、「他者の心」という問題であり、この問題は意識の超難問と裏表の関係にあるということだろう。
 その思いを強くする読書体験だった。

 

研究日誌(2026/3/23)『意識はどこから生まれてくるのか』ソームズ

■ソームズ『意識はどこから生まれてくるのか』(青土社)より。続き。

「上丘の最しんそうには、眼球運動を制御するマップがあります。このマップは、その上にある他の感覚マップよりも内来敵に安定しています。なぜなら、他のマップはこのマップと比較しながら調整されるからです。こうして、主観的な知覚体験の特徴である統一された「視点」が確立されます。だからこそ、私たちは、毎秒約三回目がどれほど動き回っても、安定した視覚シーンの中で問題なく自分自身を経験することができるのです。この安定した光景はまた、私たちが知覚するものはあくまで光景であり、現実において構築された視点であって、現実そのものではないという事実をほのめかすものです。これが、私たちが自分自身を頭の中で生きているように経験する理由でもあります。(34)」(pp.183-184)

 (34)Merker(2007,p.73)からの引用はこうです。

 「意識的な自己」は単一のものであり、頭の中の鼻梁の後ろに位置する。そこからわれわれは、頭の前にある中身のない単眼の巨大な開口部を通して、目に見える世界に直接対峙しているように思われる(Hering, 1879; Julesz, 1971)。にもかかわらずそれは明らかに単なる外観に過ぎない。なぜなら、文字通りに、かつ現に頭の中に位置づけられるなら、見るときにわれわれが目にするのは世界ではなく、頭蓋骨の前部という解剖学的な組織の内側のはずだからである。単眼の開口部とは、遠位の視覚世界が近位の視覚体の欠落部分を通して「挿入」されるという便利な神経学的フィクションである。これはいわば「頭なし」の状態であり、より正確に言えば、頭の上部を欠いている(Harding,1961)。対照的に体性感覚はこの領域にわたって途切れのない連続体を保っている。世界を見つめるための中身のない開口部は、意識の中でわれわれに与えられた身体と世界を模倣するという性質を裏切るものである。(Merker, B. (2007), Consciousness without a cerebral cortex: a challenge........... Behavioral and Brain Sciences,30: 63-81,

pp.415-416)

■ハーディングが認知神経科学の専門論文に引用されているのは珍しい。15年前にカナダのモントリオールでの学会で発表した時に、ハーディングを引用しているのは珍しいを言われたことを思い出す。

 

研究日誌(2026/03/04)ホワイトヘッドを可能世界にひきつけて読んでみた

■『科学と近代世界』(ホワイトヘッド著作集第6巻、上田泰治・村上至孝/訳)松籟社、1981 より。

もしAが永遠的客体であるとするならば、‥‥
Aに適用される「可能態」という言葉の意味は、Aの本質のうちに現実契機との関係に対する待ち設けがある、ということにほかならない。‥‥
 このようにして、特殊な現実契機aへのAの進入を表わす一般原理は、Aのaに対する進入に関してAの本質にある不確定性と、Aのaに対する進入に関してaにある確定性である。‥‥(p.215)
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難解を以て鳴るホワイトヘッドのこれが入門的書物ということだが、ここで、勝手な解釈をしてみる。

 永遠的客体A、B,Cは、可能世界における実在人物、たとえば、渋沢梅子、津田柴三郎、北里栄一のこととする。

 現実契機とは現実世界のこととする。

 すると、「特殊な現実契機aへのAの進入」とは、渋沢梅子、津田柴三郎、北里栄一のうち誰かがこのわたし(現実世界の私)になることである。

 

アグリッパ・ゆうの読書日記(2026/2/9)『意識はどこから生まれてくるのか』を読む

■マーク・ソームズ『意識はどこから生まれてくるのか』(岸本克史・佐渡忠洋(訳)、青土社、2021)より。

「‥‥憂慮すべきことは、これらの現代的な理論に直接起因して、(コッホやトノーニのような)立派な神経科学者の中に、そうかもしれない〔インターネットは情報を大規模に統合しているので意識がある〕と示唆する人が増えていることです。その神経科学者たちの理論が、この奇妙な可能性を受け入れることを余儀なくさせているのです。そうすることで、トマス・ネーゲルが始めた「汎心論者」の転回、つまりすべてのものは(ほんの僅からながら)意識を持っているかもしれないという考え方に従い始めているのです。」(p.116)

研究日誌(2026/01/01)ベルクソン講義に出てくるライプニッツモナド解釈

■『時間観念の歴史:コレージュ・ド・フランス講義 1902-1903年度』(アンリ・ベルクソン、藤田・平井、他訳、書葎心水、2019)より引用する。今までよく分からなかった、フッサールモナド論の淵源としてのライプニッツモナド論が、よく理解できた!

‥‥要するに、これは一つの視点であって、一つの視点に過ぎないということです。しかし、空間上のすべての点について、同じ操作が繰り返され、空間上のすべての点について、同じ類いの眺めをとったと想定してみて下さい。そして、全体についてとられたこれらの諸視点の全体を考えてみてください。そうすると、私たちが手にしているのは、大きさと、凹凸と、色とを備えたすべての対象ということになりましょう。すべての可能な視点についての一つの視点です。この類いの表象は、いったいどこで、あるがままの宇宙の視覚的表象と異なっているのでしょうか。もはや区別をするいかなる手段もないことでしょう。ですから、それ自体における宇宙とは、この宇宙についての可能な視点の全体、すべての可能的な視点からとられた眺めの全体のことなのだと言うことができます。

 これがライプニッツの考えたやり方でしょうか。実際のところ、ライプニッツはモナドを、全体についてのある眺めないしある視点であり、宇宙の一つの鏡であると定義しています。それは諸事物についての展望(パースペクティヴ)であり、展望的な眺めであると彼は述べています。(p.300)

 しばしば引用される一節で、ライプニッツはこう述べています。「モナドは外に向けたまどをもたない」。そのとおりだとおもいます。モナドには外というものがないのですから、どうやって窓をもつことなどできるでしょう。各モナドは全体(le tout)であり、それぞれがすべて(tout)なのです。その結果、諸モナドのあいだに何かがありうるとすれば、それは、他の諸モナドが同じ全体を或る別の視点から表現するようにさせるものです。多数の視点があるという意味では、多数のモナドがあると言えますが、それらは視点にすぎす、またそれぞれが全体についての一つの眺めである以上、相互作用はありません。‥‥同じ理念的な全体についての眺めであるそれらは、ただちに互いに符合するのでなければなりません。したがって、それらのあいだに存在するのは調和であって、相互作用は一切ないのです。」p.301

■ちなみにライプニッツ「モナドロジー」57節には、こうある。
「おなじ町でも異なった方角から眺めると、まったく別の町に見えるから、ちょうど見晴らしの数だけ町があるようなものであるが、同様に、単一な実体の無限の数を考えると、おなじ数だけのあい異なった宇宙が存在していることになる。しかしそれは、ただ一つしかない宇宙を、各モナドのそれぞれの視点から眺めたさい、そこに生じるさまざまな眺望にほかならない。」(『モナドロジー 形而上学叙説』(中公クラシックス、2005)p.221)

  ずいぶん前に読んだことがあったが、その当時はよく理解できなかったのかもしれない。

研究日誌2025|12|27_フッサール時間論とブロック成長宇宙説が両立するかも

■Sync-Ing in the stream of experience: Time consciousness in Broad, Husserl. and Dahnton, by S. Gallagher. PSYCHE, 9(10), April 2003を読む。

この論文オンラインのみのせいか頁番号がないが、8p.目、3-2節から引用する。

「すでに指摘したように、Broadは見かけの現在(specious present)から直後の未来を排除した、まさに把握すべき存在するセンスデータを必要とするのに未来のセンスデータもしくは未来についてのセンスデータはまだ存在していないが故に。Husserlは直後の未来についての予持(予期)を含めた。なぜなら予持は非存在のセンスデータの把握に依存しないから。むしろそれは、意識を予期的にする意識構造の一部なのである。」

 これでみると、フッサール時間論と分析形而上学でいうブロック成長宇宙説が両立するかもという、うれしいことになりそうだ。