研究日誌(2021/9/3)Paul Ricoeur, "Hermeneutics and the human sciences"再読(2)

■Paul Ricoeur, "Hermeneutics and the human sciences: Essays on language, action and interpretation"(Edited,translated and introduced by J. B. Thompson, Cambridge: Cambridge University Press, 1981)からの引用を続ける。

4. The hermeneutical function of distanciation (pp. 131-144)より 

p.143 Ultimately, what I appropriate is a proposed world. The latter is not behind the text, as a hidden intention would be, but in front of it, as that which the work unfolds, discovers, reverals. Henceforth, to understand is to understand oneself in front of the text.〔究極的には、私が我有化する世界は想定された世界である。この世界は隠された〔作者の〕意図としてテクストの背後にあるのではなく、作品がひらき、発見し、あばくものとして、テクストの面前にある。ここにおいて、理解するとはテクストの面前で自己を理解することである。〕

 「地平」という語を使うならば、このくだりが「他者の書いたテクストを読むとは新たな地平をひらくことである」という表現の根拠となる。

p.144 Reading introduces me into the imaginative variations of the ego. The metamorphosis of the world in play is also the playful metamorphosis of the ego.〔読むことに依って私は、自我の想像的変更へと導かれる。演劇における世界の変容はまた、自我の演劇的変容でもある。〕

 

 

どこへいった「罪を憎んで人を憎まず」の精神:池袋暴走死傷事件裁判に思う

先日(9/2)に判決が出た池袋暴走死傷事件は、事件そのものよりそれへの反応の方が、今までになく後味の悪いものになってしまっている。

 遺族の気持ちは分かるとしても、本来やるべきことは二度とこのような事件が繰り返されないよう制度的改革を働きかけることのはずだ。

 その方が絶対、亡くなった家族にも喜んでもらえるに違いないのだから。

 20年以上前のことになるが、山口県光市の母子殺害事件というのがあって、遺族がテレビ出演していて、(犯人が)出所してきたら殺します、と物騒なことを言っていた。

 その遺族にしても少なくとも犯罪被害者救済制度の推進には大いに功績があった。

 ところが今回の事件では、ひたすら被告への復讐欲だけが目立ってしまう。これが報道の仕方から受ける誤解ならいいのだが。

 被告が謝罪や反省の姿勢を見せないのがヘイトを買っている理由だと考える人も多いが、元々日本計量学会会長も歴任した理系研究者であって、私も理系大学に長年勤めていた経験から言うと、理系人には自分で理に合わないと思ったことには絶対妥協しないというところがある。

 被告も、確かにブレーキを踏んだのだから車が悪いと信じ込んでいるのだろう。これが政治家や芸能人なら一も二もなく平謝りしている筈だ。

 控訴しないで欲しいと遺族側はいっているが、ブレーキを踏んだのだから車が悪いと信じている以上、裁判という基本的人権に属する公開の場で決着をつける他ないではないか。

 そもそも、普段は加害者のプライヴァシー暴きに余念のないマスコミが、今回は理系の研究者のポストでもある元通産省工業技術院院長という正式な肩書を付けず、通産省幹部としか言わないところにも、「上級国民」という醜悪なヘイトイメージを固定させようという悪意を感じないでいられない。

 一方でパラリンピック障がい者のスポーツを賛美する同じテレビ画面で、次には杖をついた、認知症の気もある90歳の老人を寄ってたかって袋叩きにする。こんな醜悪な光景を流すのはいいかげんやめにしてほしいものだ。

 これでは、かつてラフカディオ・ハーンが明治大正の日本人に見出して賛美した、罪を憎んで人を憎まずの精神も地を払ったとしか言いようがない。

 大学で教えていた頃、卒業パーティの席で学生に、聖書のエピソードを引いて「たとえ寄ってたかって石を投げられようと、決して投げる側になってはならない」と語ったことがある。このところの日本は、マスコミと言いSNSといい、一億人がこぞって石を投げる側になろうと狂奔ているとしか見えない。

 

研究日誌(2021/9/3)Paul Ricoeur, "Hermeneutics and the human sciences"を再読する

■Paul Ricoeur, "Hermeneutics and the human sciences: Essays on language, action and interpretation". Edited,translated and introduced by J. B. Thompson, Cambridge: Cambridge University Press, 1981. 

リクールの1980年頃までの著作をまとめた便利な本。

"1. The task of hermeneutics"(pp. 43-62)より引用しておく。

Another index of the dialectic of participation and distanciation is provided by the concept of the fusion of horizons (Horizontverschmelzung). (p.61)

Whenever there is a situation, there is an horizon which can be contracted or enlarged. We owe to Gadamer this very fruitful idea that communication at a distance between two differently situated consciousness occurs by means of the fusion of their horizon, ...This concept signifies that we live neither within closed horizons, nor withins one unique horizon.(p.62)

リクールがガダマーから受け取った最も実りある概念である「地平融合」を、私の知る限り最も平易に定義した箇所。

目下構想中の、副題:手記を読みながらの現象学当事者研究、の中でも引用したい。

 

信憑性を増すコロナウィルス武漢研究所流出説

文芸春秋』8月号にも長文のレポート「武漢ウィルス人工説を追え!」(近藤奈香)が載り、コロナウィルス武漢研究所流出説がいよいよ信憑性を増してきた。
 私は最初から疑っていた。武漢のウィルス研究所から800メートルしか離れていない市場から感染が広がったという定説では、偶然の一致が過ぎるからだ。中国寄りとされるWHOの再調査要求さえ習近平政権が撥ね付けたというのも、それだけますます、国家存亡の大秘密を死守しようという姿勢が窺われて、疑念をかきたてる。
 ところがこの、武漢ウィルス研究所流出説は、テレビでは殆ど報道されない。
NHKで2020年末にとりあげたことがあったが、その時はトランプ大統領のいかにも凶悪そうな写真と一緒という具合で、最初から陰謀論を印象付けようとする情報操作が見え見えという、ひどいものだった。
お陰で日本人の多くは未だに、陰謀論を信じているらしい。このようなマスコミの自己規制ぶりには、外圧以前の内なる呪縛を感じてしまう。
 最近、人文死生学研究会で同じ世話人をしている蛭川立さんとメールのやり取りをすることがあって、やはり以前から流出説(漏洩説と言っているが)を疑っていたということなので、紹介していただいたブログ記事のURLを引用しておく。
 たいへん充実したものだと思うしはてなブログでもあり、紹介には問題ないと思う。
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https://hirukawa-archive.hatenablog.jp/entry/2020/05/20/115650 -------------------------------

研究日誌(2021/8/8)『数学に魅せられて科学を見失う:物理学と「美しさ」の罠』(ホッセンフェルダー著、吉田三知世訳、みすず書房、2021)を読みながら、人文死生学研究会の発表を反省する

理論物理学で現在人気のテーマは、単純さ、自然さ、そしてエレガントさだ。これらの言葉は、厳密に言えば、恒久的な定義を得ることは決してないし、私も本書でこれらを定義しようと試みるつもしはない。これらの言葉がいまどのように使われているかということだけ、お話ししよう。」(ザビーネ・ホッセンフェルダー、p.112)

 以上、引用しながら、先日の(8/1)人文死生学研究会(第19回)の発表「アニメとフランス小説に見る自我体験からの死生観展開」で質問に十分答えられなかった諸点を考えたい。

問:私の死と同時に世界が消えるという世界消滅説をなぜ採用しないのか?
答:「単純さ」はあっても「自然さ」がないからだ。自然さとはこの場合、信じられること、という意味になる。終活をしながらつくづく思ったが、やはり世界消滅説を私は信じてはいない。その意味で、「自然さ」がない。

問:

<作業中>

 

出版のお知らせ『明日からネットで始める現象学:夢分析からコミュ障当事者研究まで』(新曜社刊)

■『明日からネットで始める現象学:夢分析からコミュ障当事者研究まで』(渡辺恒夫著、新曜社、2310円)が6月20日に発売になったので、お知らせします。

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差し支えない範囲で、「はじめに」の冒頭部分を以下に引用します。

【はじめに】
 心理学というと親しみやすく感じられる。けれど現象学ときたら、一世紀前にはじまった哲学の一派でいかにもムツカシそう、と思っていませんか。
 ところが、それはちょっと違うのです。
 現象学は元来が心理学であり、それも最も心理学らしい心理学なのです(中略)。なぜなら、現象学とは、自分自身の体験の世界を観察して記述し、体験の意味を明らかにする学問だからです。
 自分の体験を記述するなどというと、なんだか日記を付けることから始まる学問みたいに響くかもしれません。じじつ、日記というのは現象学の重要な材料のひとつなのです。
 といっても、学問をはじめるには、「なぜ?」という問いに、謎に、直面することが必要です。万学の祖といわれる古代ギリシャアリストテレスは、「学問の始まりは驚きである」ということばを残しています。でも、私たちの日々の生活のなかでは、驚きや謎の感覚をひきおこして、観察し記述しその意味を解きたくなるような体験が、はたして簡単に見つかるでしょうか。
 それが、あるのです。毎夜、私たちが見る夢が、それなのです。
 精神分析の祖、フロイトは、「夢は無意識への王道である」という有名なことばを残しました。1900年のことです。それから120年ほどたった今、私はあえて次のようにいうことにしています。
 夢は現象学への王道である。
 そう。現象学を学ぶのに、現象学入門といったムズカシそうな本を読むことから始める必要はありません。まず、現象学を使ってみること、現象学することが、一番いいのです。
 現象学するのに、その第一歩が明日の朝から夢日記をつけ始めることなのです。
(後略)

【目次】

第一部入門篇
第Ⅰ章 手作りの科学としての夢研究――物語論現象学分析
Ⅰ―1 夢日記をつけるーーデータ収集
Ⅰ―2 夢データをウェブ公開する
 Ⅰ―3 夢分析第1段階(ユングの物語構造論的分析)――夢は四幕劇である
 Ⅰ―4 夢分析第2段階(異世界分析)――夢は異世界転生である
 Ⅰ―5 夢分析第3段階(現象学分析)――夢世界の原理を手引きとして
 Ⅰ―6 夢分析第4段階(夢の意味)――夢という物語に隠れた心理的現実
第Ⅱ章 現象学超入門(一)体験世界の志向性構造
 Ⅱ―1 現実世界の体験構造
 Ⅱ―2 夢世界の体験構造――未来や過去を現在として生きる夢、空想や小説を現実として生きる夢
 Ⅱ―3 意識の志向的構造――現象学の基本中の基本
 Ⅱ―4 夢世界での志向性構造の変容――「夢世界の原理①②」の解明
 Ⅱ―5 レイコフのメタファー論――「夢世界の原理③④」の解明
第Ⅲ章 夢シリーズの物語論現象学分析
 Ⅲ―1 夢事例6「海の彼方からの侵略で逃げ惑う夢」
Ⅲ―2 夢事例7「子犬が蝉になる夢」
Ⅲ―3 夢という現象学の王道を歩んでこそ得られる、内面世界への確信
第Ⅳ章 現象学超入門(二) フッサール現象学
Ⅳ―1 ブレンターノと志向性の発見
Ⅳ―2 ブレンターノからフッサールへーー実験現象学者たち
Ⅳ―3 難しくなりすぎたフッサール現象学――超越論的現象学と心理学的現象学
Ⅳ―4 現象学的還元とエポケー
Ⅳ―5 デカルトの方法的懐疑とフッサール現象学
Ⅳ―6 夢の現象学現象学的還元から始まる
Ⅳ―7 本質観取――現象学的方法の次の段階
Ⅳ―8 夢研究における本質観取

第二部応用篇
第Ⅴ章 現代へ向かう現象学の展開――ハイデガーからリクールまで
 Ⅴ-1 現象学的哲学の三つの時代と現象学的心理学の三つのアプローチ
 Ⅴ-2 実存主義的転回の時代
(1)ハイデガーの登場/(2)サルトルとまなざしの現象学/(3)付論 他者問題とは何か/4)メルロー・ポンティと『幼児の対人関係』
Ⅴ-3 解釈学的転回の時代(1960―2005)――ガダマーとリクール
第Ⅵ章「コミュ障」の当事者研究――インターネット相談事例をもとに
 Ⅵ―1 コミュ障とは
 ・コミュ障とは/「コミュニケーション能力テスト」をやってみると/アッパー型コミュ障?/読んではいけない!「専門家」によるコミュ障本ふたつ/コミュ障の同義語としての「人づきあいが苦手」
 Ⅵ―2 自分を猫だと思えますか?――相談事例への卓抜な回答
 ・ネット相談事例1女性――「人づきあいが苦手で人生が苦痛です」/一人称的読みーー現象学の出発点/「地平」をひらき「地平融合」に達する/他者の心を読まないことが雑談に加わる資格!?
 Ⅵ―3 ナラティブの種類でアドヴァイスを分類すると
 ・レス(回答)が因果物語りになっている件/リクールのナラティブ現象学でレスを分類する(1親のせいナラティブ・2社会のせいナラティブ・3脳のせいナラティブ・「共」のナラティブvs「独」のナラティブ)
 Ⅵ―4 オモテ世界のコミュ障とネット世界のコミュ障の違い
 Ⅵ―5 職場の困難を訴える男性事例 付 コラム「私が心理臨床家にならなかった理由
 Ⅵ―6 結論と展望
第Ⅶ章 現象学の過去から未来へ
Ⅶ-1「現象学すること」のおさらい
 1)エポケーに始まる現象学的還元/2)本質観取
Ⅶ-2 現代へ向かう現象学の展開(二)――心理学・精神医学篇
1) ヤスパース精神病理学/2)現象学的精神医学の興亡/3)現象学的心理学の新たなる登場/4)現象学的分析段階進行表による「夢世界の原理」の導出/5)現象学的分析手続きのモデル化
Ⅶ-3 現象学の未来ーー万人の万人による万人のための現象学
読書案内・あとがき

 



読書日記(2021/6/9)『人は簡単には騙されない』(ヒューゴ・メルシエ、青土社、2021)で初めて知る毛沢東の正体

■『人は簡単には騙されない:嘘と信用の認知科学』(ヒューゴ・メルシエ、高橋洋訳、青土社、2021)を読む。

 原書は英語だが著者はフランスの認知科学者。関連性理論のスペルベルの弟子らしい。

 というか、そもそも関連性理論を20年前に読んだときには、スペルベルがフランス人だと知らなかったのだ。原書が英語だからだろうか。認知科学の領域では英語嫌いのフランス人でも英語で書くのだろうか。

 それはそうと、いくつか印象に残った部分があるので抜粋したい。一つはラカンの正体についてで、もう一つは毛沢東の正体についての記載だ。まず、後者から始めよう。

大躍進運動を始めるに当たって毛沢東は、ほとんど農業の知識を持っていなかった。‥‥ロシアの生物学者トロフィム・ルイセンコに感化された彼は、作物が理想的な共産主義国家で生きる人びとに似ていると主張した。同じ階級の属する人びとは互いに争ったりはせず、「仲間といるとすくすくと成長し、ともに成長するとより快適に感じる」のだ。そして彼はこの考えをもとに、中国全土の農民が数千年間実践してきた方法より、作物の種をはるかに近接して蒔くよう奨励した。/農業に対する毛沢東のこの見方は、彼にとってではなく、そのやり方を強制された農民にとって惨憺たる結果をもたらした。近接して種を蒔くやり方や、彼が推奨したその他の非生産的な農法は、作物の収穫を激減させた。そのため史上最悪の飢饉が生じ、4000万以上の中国の農民が餓死した。このように毛沢東の愚かな考えがとんでもない災厄をもたらしたにもかかわらず、彼は死ぬまで権力の座に居座りつづけたのだ。(p.342)

  大躍進運動が4000万の犠牲者を出したことは、確か、アメリカの認知心理学者ピンカーの邦訳書にもあったが、その原因が毛沢東のルイセンコ主義にあったことは、初めて知った。

 というか、60年代後半の文革期にはすでに、大躍進運動の惨憺たる失敗は広く知られていたはずなのに、日本のマスコミはまったく報道しなかった。それどころか、今は亡き「朝日ジャーナル」を先頭に、毛沢東礼賛一色だったのだ。

 この風潮は今でも続いている。アメリカやフランスの認知科学者が常識として知っているようなことが、私たち日本の大学系研究者には、さっぱり伝わって来ないのだ。

 コロナ・パンデミックにしても、ウィルスの武漢研究所流出説がいよいよ現実味のある話になってきたにもかかわらず、大手マスコミはだんまりを決め込んでいる始末だ。

 無理もない。大学紛争終焉とサヨク各派の分裂衰退後、活動家の主要な就職先が、一つは大学で、一つはマスコミだったのだから。

 そしてまた、80年代から90年代にかけて、サヨク各派の消滅の時期に、構成メンバーたちは人権・環境・反核といったNPO組織に潜入し、素人の間でたちまち頭角を現して運営の実権を握ってしまったのだから。

 別のブログでも「チベット問題に寄せて」という記事に書いたが、2004年の北京オリンピックに際して、人権派中の人権派である国境なき記者団が体を張って、チベット弾圧の不当さを訴えた。

 ところが日本の人権派は完全な無視を決め込んだのだった。

 そして17年後の現在。北京には、習近平が「遅れてきたスターリン」としての禍々しい巨大な姿を鮮明にしつつある。

 けれども、元々が毛沢東崇拝者だった日本のソフトスターリニストたちに、習近平政権を批判できるはずがないのだ。

 それどころか、サヨクの看板をリベラルに付け替えて、マスコミ界や学術(笑)界での延命を図ろうとしている。おかげで本来の西欧型民主主義に忠実な日本のリベラルは、やむをえず保守派を名乗らざるを得なくなってしまっている。

 そんな情勢の中、偽リベラル、にわかリベラルにリベラルの称号を簒奪されないためにも、わたし自身はリベラルを標榜し続けようと思う、この頃である。

<作業中>