研究日誌(2024/5/22)シュミッツ『身体と感情の現象学』が「オデュッセイア」に二元論の始まりを見る

ホメロスイーリアス』と『オデュッセイア』の間の深淵

 デカルトが二元論の開祖だみたいな言説をみるたびに嗤いたくなる。
 二元論は人類に普遍的な思考傾向としてどこにでもある。
 私たちも日常は二元論的に生きている。

 西洋精神史のなかで二元論の哲学的な定式化は、通常プラトンに始まると言われているが、シュミッツはさらにその淵源を、ホメロスの『イーリアス』と『オデュッセイア』の間に置く。

 『身体と感情の現象学』の第七章「ヨーロッパの哲学における身体と魂」から、幾つか興味ある個所を引用しよう。
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 ‥‥人間をつねに身体と魂によって組織された一なる複合体であると考える心身論的人間学は、後世全般にわたって規範となっていくその特性を、遅くともプラトンの時代には担っていたという事実である。(p305)

イーリアス』のプロオイミオンが示しているように、ホメロスにとって、人間とはその身体である。ところがソポクレスになると人間は魂と同一視され、そしてプラトンにいたって今述べたような人間の新しい位置が明確に打ち出されたのである(25)(p.312)。

人間の自己理解に関していえば、『イーリアス』と『オデュッセイア』との間にはひとつの亀裂が生じているからである。『オデュッセイア』は、人格が自己に権能を付与していくのを詩的に謳い上げたプログラムであると言ってもほとんどよいくらいであって、そういった仕方で人格が自己に権能を付与することは、心身論的人間学の魂の概念ーーそれは『オデュッセイア』ではまだ欠けているのであるがーーを用いて、その後プラトンにいたるまで理論的なかたちで広範囲に行き渡ることになったのである(27)。‥‥『イーリアス』ではまだ意のままにすることができなかったが、『オデュッセイア』に登場するオデュッセウスにしてはじめて所有することのできた次のような能力である。それはすなわち、自分自身を外からながめ、ひいては自分の顔の表情を自在に操って、「少しもそぶりを表さない」ようにする能力である。‥‥プラトンにとって怪しむに足るべきはずのホメロスのあらゆる作品のなかで、プラトンはただこの箇所だけは重視しており、そればかりか繰り返しここと引き合いに出していることは特筆に値する。‥‥ヨーロッパの人間が、自己理解の最も実り豊かで最も柔軟な、そして後世にくまなく浸透していった発展段階、つまりホメロスプラトンとの間のギリシャにおいて内部世界や魂を獲得するにいたったということである。(pp.312-315)

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また、次のくだりは、以上の論旨とは離れているが、最も興味深い。なぜなら、中立一元論や二相一元論によって二元論を克服しても、他者を問題にするや否や困難が生じ、もとの二元論に戻ってしまいがちだから。
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内部世界投入論を信憑性のないものとみなし、この問題を根本的に提起することのできた最初の人物はリヒャルト・アヴェナリウスであった。彼はひとつの解答を見出したが、それはなるほどもっともらしいものではあるけれども、単なる机上の空論にすぎないようなものである。すなわち、それによると、自分の回りの人間を自分の世界に組み入れようとすると、さまざまな困難が生じるが、各個人にとってこのような困難が、公開的に近づきうる外部世界と並んで、内部世界なるものを自分自身に帰属せしめる原因となったのである(8)。(p.304)

 

 

研究日誌(2024/05/21)オンラインジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』Vol. 6 刊行のお知らせ

■オンラインジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』("Revue d'épistémologie et des sciences de l'esprit", or "Journal of Epistemology and Mind Sciences")

Vol.6 (2024)は5月15日にJ-Stage公開されました。  ←ココから入る

<内容>
・Editorial
 田中彰吾 第40回人間科学研究国際会議(IHSRC 2023 Tokyo)開催記
・Original paper(原著論文)
 Teruaki Georges Sumioka   Reality as Story: Sensibility and Orientation (純丘曜彰 物語としての現実感:感性と見当識
・特集「人文死生学」
・研究会報告
 人文死生学研究会(共催:心の科学の基礎論研究会)報告(2024)
・コメント論文
 榛葉豊 南学正仁(2023)「『なぜ私が死ななければならないのですか』:科学としての医療が崩れるとき」への現代物理学からのコメント ― 「科学的世界観の崩壊」と観測主体位置づけの変化 ―
 小島和男 『こころの科学とエピステモロジー』Vol.5,2023「特集人文死生学」収録の以下5件へのコメント:随想(水島淳)/研究随想(渡辺恒夫)/書評(久場政博)/書評(重久俊夫)/ゲストエディター解説(新山喜嗣)
・書評
 渡辺恒夫『精神科の薬について知っておいてほしいこと:作用の仕方と離脱症状』(J.モンクリフ著)
 重久俊夫『自由と成長の経済学』(柿埜真吾著)
 渡辺恒夫『デイヴィッド・ルイスの哲学』(野上学志著)
・映像メディア時評 特集
 土居豊 「京アニ事件と『涼宮ハルヒ』 本当に小説・アニメが犯行の引き金なのか?:事件裁判の経過を通じてもう一度、小説・アニメ『涼宮ハルヒ』シリーズと京都アニメーション事件の関係を考える
・Miscellaneous
    小笠原 義仁 AIに心は存在するのか?
 A.ビネ & V.アンリ/ 渡辺恒夫(訳) 単語の記憶(1894):フランス最初の心理学専門誌創刊号巻頭論文

・編集後記・編集委員会名簿
・投稿執筆規程

研究日誌(2024/5/12)シュミッツ『身体と感情の現象学』とフッサールの訳語

■『身体と感情の現象学』(シュミッツ/著、小川イ兄/編訳、産業図書、1986)で、フッサール他者論のキーワードAppraesentationの訳のヒントになる部分を見つけたので引用する。

 過去と未来が現在化されていず、また位置時間にはめこまれたりされていずに、従って様相時間が水平化されていないとき、このときに限ってその様相時間を純粋様相時間と呼ぶ。そこで以上のことをまとめれば、根元的な仕方で身体が襲われるという例に即して純粋様相時間は次にのべるような構造をもっていることが明らかにされた。絶対的瞬間としての今は一時的現在あるいは身体の狭さにおいて、自我や現にあるということ、さらにまた私がこれまで無視来て来たこれ以外の契機とも一体となっている。そして、今は未来とも融合して一つの全体をなしているのだが、それは未来が多義的なものを一義化する出来事として〔現在の方からは〕逆行しえぬほど傾斜してきたこれ以外の計ことも一体となっている。そして、今は未来とも融合して一つの全体をなしているのだが、それは未来が多義的なものを一義化する出来事として〔現在の方からは〕逆行しえぬほど傾斜した形で今のなかへと入り込んでくるからである。引き離せぬ仕方で未来と現在という両極の間に張り広げられたこの全体、私はこれを来現(Appraezenz〔「‥‥へ」を表すadと「現在」を表す praesensを合わせたラテン語起源の合成語〕)と呼ぶ。来現へと拡張された現在はまた、純粋様相時間のなかで多義的な過去から、それらをわかつ裂け目によってひきさかれつつも、またそうした仕方で融けあっているのである。(p.207)
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これで見ても、かつて研究日誌2022/6/23記事で論じたように、フッサール他者論のキーワードAppraezentationは、他者論の文脈で「来現前」と訳すのが適切と思われない以上、向現前と訳すのが正しいと分かる。現象学者が用いている共現前は明らかにおかしい。

 

 

 

研究日誌(2024/5/6)シュミッツ『身体と感情の現象学』に引用されたミショーのメスカリン体験

■ヘルマン・シュミッツ『身体と感情の現象学』(小川たかし編、産業図書、1986)を図書館で手に入れて読む。

「アンリ・ミショーはメスカリンによる幻想について報告しているが、そのなかでかれは、とあるグラフ雑誌の表紙を飾るカヴァーガールの写真を見たときにかれのうちでそのような状況が生まれた様子を、ゾクゾクするようなタッチで描いている(17)。」(第三章、p.158)

 とあるのが目に留まったので、章末注(17)を見ると、ドイツ語訳に加えて原文:

L’infini turbulente, Paris 1957

と言及があった。そこで図書館でミショー全集(青土社)を探してみると、巻Ⅳの「荒れ騒ぐ無限 第六の実験」に、次のようなくだりを見つけた。

「わたしは雑誌を手に取る。‥‥表紙の上の眼に入った最初の写真を眺める。
 それは、わずかに微笑している生き生きとした娘の肖像写真で、特にその目には楽しみの小さな光が輝いている。
 わたしは彼女を眺める、そして興味を引かれずに目を離す。わたしは援軍の来るのを待つ。すると、突然、私の知らぬ間に開いていた落とし穴の中に消えてしまったみたいに、そこにわたしは落ちたのに違いなかった、《わたし》はもういないのだ。こんな話は実際聞いたことがない!
 雑誌をまた手に取ってその娘を眺めていた時に、わたしにはやっとそのわけがわかった。彼女がわたしになっていたのだ。」(pp333-334、小海永二訳、1987)

 

アグリッパ・ゆうの読書日記(2024/4/27)精神障がいのある親に育てられ、成長して支援職に就いた子どもたちの語り

■『静かなる変革者たちーー精神障がいのある親に育てられ、成長して支援職に就いた子どもたちの語り』(横山恵子・蔭山正子・こどもぴあ、ペンコム、2019)を読む。

心に残った箇所から抜き書き。
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そして、支援者として経験を積んで、悩んで、分かったのはこのことでした。
「家族は家族、支援者にはなれないーー」
 家族だからこそできることはたくさんありますが、家族にも支援の限界はあります。自分が人生の岐路に立たされた時、自分の人生より家族を優先することは、やはり難しいことです。当時の自分は、人生を犠牲にしてでも、母に寄り添うことが良いことだと思っていましたが、それは長く続かず、無理をしている状態でした。何かを犠牲にして面倒をみることが家族の役割なのでしょうか。
 家族と言っても、精神障害をもつ「その人」を支えることは簡単なことではありません。つらくなって当たり前だし、投げ出したくなって当たり前です。(p.46)

 精神障がい者を抱える家族が、まわりに助けを求めることができないのは、世間一般にそういう場合、家族の面倒をみるのは家族だとされているからです。(p.47)

左翼マスコミによる統一教会バッシングの背景に潜む闇をえぐった問題作を紹介!

■「カルトという蔑称と反カルトに内在するカルト性:定義なき言説と対立の諸相」大喜多紀明『人文×社会』第8号(2022)、71-155

 という素晴らしい論考を見つけました。
『人文×社会』とは、東大の学生・院生が手作りで発行した雑誌ということで、手に入れにくそうですが、幸い著者が自らのブログで順次公開しているので、そこから読めます。

大喜多 紀明 (Noriaki Ohgita) - カルトという蔑称と反カルトに内在するカルト性:定義なき言説と対立の諸相 - researchmap

以下、重要だと思うくだりを、暇をみて引用させていただく積りです。

<工事中>

 

ウクライナが本当に必要としているのは軍事援助ではないか

■日本はNATO加盟をめざせ!

ロシア軍の反・反転攻勢のニュースを見るたびに、胸が痛みます。

テレビではウクライナに日本が出来る支援のニュースが流れますが、肝腎のことは伏せられています。

 ウクライナが今、最も必要としているのは、弾薬などの軍事援助ではないでしょうか。

 日本にはそれができないという、もどかしさ。
 現憲法下でもできることはある筈です。
 たとえば、安倍政権時代の安保法制化で、すでに集団安全保障へと一歩踏み出したのだから、その延長線上でNATOに加盟するとか。

 きっとウクライナを励ますことでしょう。
 欲を言えば、憲法改正して自衛隊を明記すること。もちろん九条はそのままにしてです。このところ色々考えて、自衛隊と9条の精神とは、決して両立しないわけではないと分かって来たので。

‥‥といったことをある人にいったら、本当に必要なのは和平、と切り返されてしまった。

 ということは、この人、トランプ大統領の誕生を望んでいることになるじゃないか。トランプは1日で和平を実現すると豪語しているのだから。