研究日誌(2021/3/8):夢日記・ギリシャ悲劇『トロイアの女』・時間を異にした私

■2021年3月8日。朝。夢を見た。

長い夢だった。

最後の方では学科の記念行事か何かで、元教員として、自転車に乗ってパレードに参加していた。

私の前を行くのはST。色んなノウハウを知っているので、頼りにしている(このあたり、学科とは何の関係もないSTと、元学科の非常勤講師で実験指導に来てもらっていたKさんとが融合しているようだ。特にKさんは目下、J-Stage搭載の件で世話になっているので、印象が強い)。

 自転車で、凸凹になった舗道を漕いで行く。その肉体感覚が、目覚める前から覚醒後まで連続的に、まざまざと残っていた。

 この場面の前になにかがあった。それは、昨夜読んだユウリピデスの『メディア』の話を連想させる何かだったはずだが、もう思い出せなくなってしまった。

 メディアとは、金羊毛を取りにアルゴ船を仕立ててギリシャから黒海の奥の国へと行った、英雄イアソンの冒険譚に出てくる。その国の王女で、魔法を使ってイアソンを助け、実の弟を殺してまで従って伴にギリシャにいった。そこでも、イアソンに金羊毛取りという難題を吹っかけた叔父の国王を謀殺して、イアソンに尽くした。

 故国に居られなくなってイアソンとメディアはコリントスの国に逃れるが、そこの王がイアソンに王女の婿になれと勧めて、イアソンは受け入れ、結果としてメディアはまったくの異国に、二人の子供とともに捨てられることになる。

 それからが魔女の本領を発揮して、花嫁とその父王を毒殺し、さらには二人の我が子もイアソン憎しに殺して、竜車に乗って去る。そういった、救いようのない話だが、アリストテレスの『詩学』ではギリシャ悲劇の代表作として論じられているそうだ。

エウリピデストロイアの女』を読んで、落城のトロイア王妃ヘカベとは、わたし自身であったかそれともゾンビであったかの二者択一を迫られる

 元々、『ギリシャ悲劇全集3ユウリピデス(前)』(ちくま文庫)を手に取ったのは、『トロイアの女』を読むためだった。舞台はトロイア陥落の後、残されたトロイア王家の女性たちの運命を描いているのだが、中心となるのは、王妃ヘカベ。その前に、息子のヘクトルもパリスも戦死していたが、陥落時に目の前で夫のプリアモス王を惨殺され、木馬の詭計を見破ったのに誰にも信じて貰えなかった娘のカッサンドラは気が狂い、末の娘はアキレウスの墓前に人身御供に供され、ヘクトルの遺児も城壁から投げ落とされるというように、一族ことごとく悲惨な末路をたどり、自らも奴隷としてギリシャに連れていかれる。その運命が次々と明らかになる展開を、ヘカベの身も世もあらぬ嘆きと共に描き出している。

 大河ドラマでいう「戦国のならい」ではないが、古代の戦争では敗者は男は皆殺し女子供は奴隷にされた(子供でも主だった者の男児は殺された、うっかり情けをかけると、それこそ頼朝によって平家が滅ぼされたようなことになる)。だからこの程度の悲劇はありふれていたかもしれないが、特にトロイア王家の女性たちの場合、それまでの栄華との落差が激しく、余計に悲劇性が著しい。

 このような歴史上の悲惨な運命に遭った人物のことを知ると、昔からの、子どもの頃からの、ある疑問が頭をもたげるのを禁じえない。それは、

 ヘカベはこの私だったのではないか。そうでないなら、ゾンビだったのではないか。

■他者とは何かと私の死とは何かという二つの問いは同一であること。

 ヘカベが私と等根源的な他者であるという意味は、「私がヘカベとして生まれたような可能世界の実在を確信する」という意味である。ところが、現に私はヘカベではないので、この確信の意味は、「過去か未来に私がヘカベであるような世界がかつて現実化していたor将来現実化するだろう」という意味になる。それ以外に考えようがないではないか!

付記 この後、サルトルに『トロイアの女たち』という現代劇化作品があることを知った。そのうち読んでみよう。

<未完、作業中>