■H. Bergson (1888). Essai sur les données immédiates de la conscience(意識に直接与えられるものについての試論)を読む。
少し前、分析哲学の八木沢敬『ときは、流れない』(講談社)を読んでいて、「相互浸透」といったあいまいな表現ではなく‥‥、というくだりが目に留まった。明らかに、ベルクソンによく出てくる、その影響かメルロー・ポンティにも出てくる、相互浸透という表現を揶揄したものだ。
実は私も、この表現には疑問を持っていた。よくわからないからだ。
ところが、ベルクソンの前期の代表作、日本では『時間と自由』という邦訳名で知られる原書を読んで、相互浸透という訳語が不適切なのではないか、と思い至った。
本書のp. 107に重要な1節があるので、まず原文引用する(アクサン省略でもうしわけないのですが‥‥)。
: ou je juxtaposerai les deux images, et nous retombons alors sur notre premiere hypothese; ou je les aprecevrai l'une dans l'autres, se penetrant et s'organisant entre elles comme les notes d'une melodie, de maniere aformer ce que nous appellerons une multiplicite indistincte ou qualitative, sans aucune ressemblance avec le nombre : j'obtiendrai ainsi l'image de la duree pure, ...... (pp.107-108)
最新の邦訳では、こう訳されている:「第一の場合、わたしは前後二つの揺れのイメージを併置する。しかしそれは先に見た第一の仮定に立ち戻ることになる。第二の場合、わたしはその二つの揺れを一つが他方のなかにあるようなかたちで認知する。いくつもの音が一つの旋律を織りなすように、両者は相互浸透し、相互に一つの有機的統合体をつくる。そこに形成される有機的統合体を、わたしは今後、不可分多様体あるいは質的多様体と呼ぶことにしたい。この不可分ないし質的多様体は数的観念とはまったく異なるものである。こうしてわたしは、純粋持続のイメージを得たことになるが‥‥」(竹内信夫訳、『新訳ベルクソン全集1』白水社、2010、p.103)
ずいぶんとこなれた訳になっていると感心するが、はたして "se penetrant" はこの訳のように「相互浸透し」でいいだろうか?
というのも、 その直前の”je les aprecevrai l'une dans l'autres”(一つが他方のなかにあるようなかたちで認知する)という意味が、それでは十分にくみ取られていないと思うからだ。それをくみ取るにはむしろ、相互嵌入という訳がふさわしいのではないか。つまり、入れ子ということだ。
ここでベルクソンが言っているのは、現在の中に過去が入れ子となって嵌入しているという意味に違いないから。純粋持続の知覚とは、現在の中に過去が入れ子となって嵌入している、という事態に違いないからだ。
入れ子細工的な相互嵌入という意味にとると、少し後(1904)から始まったフッサールの時間論と同じような事態を意味していることになる。現在知覚のなかに過去把持が含まれ、過去把持の中にさらにその過去把持が含まれ‥‥いつの間にか知覚は想起へと移行する。このような時間知覚の立体的把握がフッサール時間論の特徴だとすると、ベルクソンの純粋持続に相互浸透の訳をあてがうと、いかにも平面的に感じてしまう。けれども、相互嵌入ならば、立体的把握であることがはっきりする。
これは決して意訳ではない。現に辞典にも、「染み込む」と並んで「貫入する」の訳語がある。少し古いが「嵌入」でいいと思う。そのほうが、入れ子構造がはっきりするから。
<作業中、未完>