研究日誌(2023/8/6) 観劇は他者経験のモデルにはならないようだ:『像意識と平面構成:フッサール想像論の未開の境地』(伊集院令子)を読みながら

■以前の記事「研究日誌(2022/3/19)フッサール他者論、リシールの空想身体論、ファンタシアを経由して間身体性へ?」で、坂本(2021)の次の文章を引用しておいた。

フッサールは「知覚的空想(perzeptive Phantasie)」という概念を導入する(ⅩⅩⅢ, Text Nr.18)。これは矛盾した概念ではない。この概念における「知覚」とは像物体のWahrnehmungではなく、像客体のPerzeptionであり、後者は実在を措定しない、いわば中和化された知覚だからである。リシールによれば‥‥」(p.134)

「他者身体の構成は、像意識とは別の準現在化作用である「知覚的空想」の働きにその可能性が求められねばならない」(ibid)。

フッサールは知覚的空想の事例として、『リチャード三世』を挙げている(ⅩⅩⅢ,515)。」(ibid.)

 つまり、perzeptive Phantasie(「知覚的空想」とあるが、後出の「知覚的想像」でよいと思うので、以後こちらを用いる)こそが他者身体への通路であって、そのモデルとして観劇体験が引かれている、と私は解したのだった。

 そこで参照されているテクストを読みたくて、立正大学現象学者T教授の研究室まで行って、HusserlianaⅩⅩⅢのText Nr.18のコピーを貰って来た(この研究室は数年前に科研費研究会で何度か訪れたことがあり、懐かしい気がした)。
 それが4月のことで、いらい2度読み返したが、フッサールのこととてひどく読みにくい。まだフッセリアーナのこの巻のメインである「Phantasie und Bildbewusstsein(想像と像意識)」の方は「冬講義」と称される講義ノートだけあって叙述が具体的で読みやすいが、こちらは同じ未公刊でも覚書だ。人に見せるなどテンから考慮の埒外だったのだろう。
 ただ、以前の像意識分析を修正し、観劇経験のところで、それは摸像(Abbild)ではないこと、そこでの経験のals ob (=かのように)という特徴を、強調していることだけは印象に残った。
 そこで、これもT教授からフッサール想像論の研究者として噂をうかがっていた伊集院令子氏の『像意識と平面構成』を図書館で閲覧して、該当部分にあたってみた。

 「第七節フッサールによる像概念の自己修正の限界」(伊集院、2001、pp.71-75)がそれに当たる。節タイトルから想像させるように、フッサールにかなり内在的批判の態度を取っている。

 まず、伊集院訳でのフッサール草稿の該当部分を引用しよう。

「私は以前、像的(造形的)芸術(bildende Kunst)の本質には像において呈示することが属すると考え、そしてこの呈示作用を模像作用と理解してきた。しかしながらよく考えるとこれは正しくない。演劇上演の際にわれわれは知覚的想像(perzeptive Phantasie)中に生き、われわれはひとつの像の連関した統一のうちに「像」(Bild)をもつが、それだからといって、模像(Abbilder)をもつのではない」(S. 514-515)。

 ところが伊集院によると、このようなフッサールの自己修正には問題がある。一見すると、模像性なき像概念は、「誰も見たことのない対象の絵(神の絵やケンタウロス、あるいは鉄腕アトムなど非実在的対象の絵)‥‥模像性は類似性を前提とするが、非実在的対象との間に類似性を想定することは不合理ではないか、というわけである。‥‥しかし重要なことは、フッサールの像概念の基本的構造(三層構造)は、模像性なしには成り立たないということである。しかも、フッサールの模像性は特異な概念であり、像客観と像主題との間に成立する類似性は、人物画とそのモデルとをわれわれが比較しつつ眺め、そこの類似性を見てとるというような、関係づける意識(vgl.XXIII, S. 27f.)において把握される類似性ではなく、そもそも像(絵画)のうちに何か別のものを観入する(hineinschauen)ことを可能にする意識の機能を指すのである。そして、このような意味における模像性ならが、神の絵やロボットの絵においても、画面に描かれた形象(Figure)が、われわれの知っている人間やロボットになにがしか類似している図姿であるということにおいて、模像性を認めることができるのではないか、と思われる」(p.220-221「注」)。

 長々と引用したが、ここで思いついたことは、演劇の上演などにおいても、私がまるでハムレットであるかのように(als ob)劇の世界を生きるという体験においても、模像性を認めることができる。しかも何に類似しているかというと、ハムレットならぬ現実の私自身という生き方に、類似している、のではないか、ということであった。

 すると‥‥どういうことになるか。

 観劇体験が他者経験のモデルどころか、他者経験こそ観劇経験のもでるであることになる。したがって、知覚的想像に他者構成の手がかりを求めることは、逆立ちしているのではないか‥‥

 

引用文献

伊集院令子(2001).『像意識と平面構成:フッサール想像論の未開の境地』晃洋書房

Husserl, E. (1980). Phantasie, Bildbewusstsein, Erinnerung. Zur Phänomenologie der anschaulichen Vergegenwärtigung. In E. Marbach (Ed.), Husserliana XXIII.

坂本秀夫(2021)「「間身体性」の近さと隔たりー間身体性の倫理学の構想(2)ー」跡見学園女子大学文学部紀要、第54号:125-144