研究日誌(2022/9/9)人の同一性について

■セオドア・サイダー「人の同一性」『形而上学レッスン』の最後に面白い一節を見つけたので、引用する。
-------------------------------------
‥‥ほとんどの日常的なケースでは、心理的連続性と人の同一性は一致している。パーフィットによれば、その理由は、人の同一性が枝分かれしない連続性にほかならないからであり、連続性がめったに枝分かれしないからだ。だが複製が生じるケースでは枝分かれしてしまっている。その場合には、あなたは存在しなくなるのである。でも、複製が生じるケースでは、存在しなくなることは悪いことではない。パーフィットはそう言う。あなた自身が存在し続けることはないとしても、それでも重要なことは何も失われない。心理的連続性はちゃんと保たれるからだ。(じっさい、あなたは二重に助かるのだ!)
 パーフィットの見解は実に興味深く、意欲的だ。でも、完全に存在しなくなることも時にはたいしたことじゃないなんて、ほんとうに信じられるだろうか?そうするためには、日常的な信念をラディカルに変更することが必要になる。ほかの選択肢はないのだろうか?
 代わりに、人の同一性に関するほかの前提を考え直すこともできるだろう。もし元の人と、その人にとって代わる複数の人のあいだで同一性が成り立つと、とって代わる人はどれも同一人物だというおかしな結論が得られる。複製の議論では、そう前提されていた。だが、このおかしな結論が導かれるのは、人の同一性が数的な同一性である場合、つまり、数学のイコール記号(=)によって表されるものと同じである場合だけだ。この章の冒頭で、この二つは同じだと前提した。だが、ひょっとすると、これはまちがいかもしれない。「人の同一性」は実際には数的な同一性ではまったくなく、どんなささいな変化からも、数的に異なる人物が実際に生まれるのかもしれない。だとすると、枝分かれがあると人の同一性は失われると言う必要はない。前と同じように、人の「同一性」は連続性にほかならない(心理的連続性でも時空的連続性でもよいーーこのことは決めなければならないこととして残される)と言えるからだ。枝分かれが生じているケースでは、ただひとりの人と相異なる二人のあいだで、「人の同一性」という関係が成り立つこともありうるのだ。人の同一性が数的な同一性でなければ、これは別におかしなことではない。それでも、単なる質的な類似性(「彼は大学に行く前とは別の人間だ」)と、罰や期待や後悔と結びついた厳密な人の「同一性」は区別する必要がある。だが、この厳密な概念でさえ、数的な同一性よりは厳密ではないのである。
 赤ちゃんの頃の写真は自分と数的に異なる人の写真である。そんなことが本当に信じられるだろうか?このことにも信念のラディカルな変更が必要だ。だが時に哲学は、まさにそういうことを要求するのである。(pp.27-29)(セオドア・サイダー「人の同一性」『形而上学レッスン』(A.コニ― & S.サイダー著、小山虎訳、春秋社、2009)
---------------------------------
 これなら、de re のこのもの主義での可能世界相互の貫世界同定という難題を乗り切るのにも使えそうではないか。