研究日誌(2022/10/1)リクールの物語的自己同一性(personal identity)について

■研究日誌(2022/6/15)「マッキンタイアの物語論的人格同一性(personal identity)について」についての続きになるが、リクールを読み返し、より納得できるフレーズを見つけたので、引用しておく。

「‥‥こうしてその名で指名される行為主体を、誕生から死まで述べている生涯にわたってずっと同一人物であるとみなすのを正当化するものは何か。その答えは物語的でしかあり得ない。「だれ?」という問いに答えることは、ハンナ・アーレントが力をこめてそう言ったように、人生物語を物語ることである。物語(ストーリー)は行為のだれを語る。〈だれ〉の自己同一性はそれゆえ、それ自体物語的自己同一性にほかならない。」(『時間と物語Ⅲ』(久米博訳、新曜社、1990、p.448)
「この二律背反が消えるのは、同一(idem)の意味に解されるidentitéを、自分自身(ipse)の意味に解されるidentitéに替えるならば、である。idem とipseの違いは、実体的または形式的自己同一性と、物語的同一性の違いにほかならない。‥‥〈同〉の抽象的同一性とは違って、自己性を構成する物語的自己同一性は、生の連関のうちに変化、動性を内包することができる。そのとき主体は、プルーストの決意にしたがえば、自分の人生の読み手であると同時に書き手として構成されて現われる。」(p.449)
「第一に、物語的自己同一性は、安定した、首尾一貫した同一性ではないことである。同じ偶然的な出来事についていくつかの筋を創作することが可能なように(その場合、それは同じ出来事と呼ぶにはもう値しない)、自分の人生についてもいろいろ違った、あまつさえ対立する筋を織りあげることも可能なのである」(p.452)。 

「多くの物語において自己がその自己同一性を求めるのは、人生全体というスケールにおいてである。」(『他者のような自己自身』(p.149)

「「私は誰か」の問いへの答えとなるような、時間における恒常性の形はないだろうか。」(p.153)

「‥‥同一(idem)と自己(ipse)の区別を知らないと同時に、人格的自己同一性の逆説を解決するために物語性が提供してくれる資源をも知らないような、人格的自己同一性理論の権利を検討してみる必要がある。じつはこの同じ理論が人格的自己同一性の逆説を強く、明晰な言葉で提起するという長所をもっているのである。」(p.160)

「自己同一性の二つのモデルの区別という導きの糸がなく、物語的媒介という助けが無かったら、人格的自己同一性の問題は、難問と身動きできない逆説との迷路にはまりこんでしまうことは、分析によって養われた英語圏の哲学者が、まずはロックやヒュームから学んだ教訓であった。」(ibid)