研究日誌(2023/9/22)『マインド・フィクサー』より(続)

■『マインド・フィクサー』については、研究日誌(2023/9/4)でも引用したが、ようやく読了し、そして結論の末尾に近く、意義深い文章をみつけたので、抜粋しておきたい。

「これまでとは対照的に、新しい精神医学は謙虚さを美徳とし、自分たちが直面している科学的課題がどれほど複雑であるかを認めていく必要があるはずだ。‥‥結局のところ、現在の脳科学では、多くの、いやほとんどの精神活動の生物学的基盤について、まだ理解できていないのだ。」(p.276)

研究日誌(2023/09/19)『統合失調症は治りますか』(池淵恵美)より

■池淵恵美著『統合失調症は治りますか:当事者・家族・支援者の疑問に答える』日本評論社、2022)より、抜粋する。

「Q21 統合失調症という病気は治りますか。

Ans 私が一番残念に思っているのは、「人類がまだ統合失調症を克服できていない」ということです。‥‥精神医学、そして脳の研究はどんどん進んでいますから、それほど遠くない未来によい治療法が出現することに期待したいです。ただ、それは数年先だとか、そんなに近い未来ではなさそうです。‥‥」(p.64)

「‥‥統合失調症に伴う脳の不調には、次のようなものがあります。

①注意を集中したり、出来事を覚えたり、仕事の段取りをつけたりする神経認知機能の障害。

②相手の表情や動作から、気持ちや意図を察したり、おかれている状況を理解した入りする社会認知機能の障害。

③自分自身の感情や状態を理解する自己認識機能の障害。

④‥‥陰性症状

 ‥‥薬物で幻聴がよくなっただけでは元気に生活できるようにならないことが多いのは、この障害があるからです。」(pp.39-40)

 

研究日誌(2023/9/4)『精神科診断に代わるアプローチ PTMF』等を読んで

■『マインド・フィクサー精神疾患の原因はどこにあるのか?』(アン・ハリントン、松本 俊彦/監訳、金剛出版、2022 )を読む。

1963年から始まったアメリカの脱施設化について‥‥

「だが脱施設化による地域が進むと、精神保健・医療システムは患者に対処する能力をもはや失ったように見えた。”州立病院を閉鎖したことで、「責任の所在が地域社会に戻ったわけではないと思います。親に責任が押し付けられたのです!"[123]、”私たちが死んだら、子どもたちはどうなるのでしょうか”[124]、といった、システムの責任放棄やそのリスクの高さを指摘する声が聞かれた。」(p.178)

■『精神科診断に代わるアプローチ PTMF』M.ボイル・L.ジョンストン、北大路書房、2023)より。

「例えば、米国の国立メンタルヘルス研究所(国立精神生成研究所)の元所長であるスティーブン・ハイマン博士は、DSM-5を「完全に間違った、純然たる科学的悪夢」(Belluck & Carey 2013に引用)と表現しています。」(p.11)

「アンチ・スティグマ・キャンペーンでよく使われるスローガンには、「精神疾患は、他の疾患と同じです」というものもあります。/このようなことを言われると、精神科診断と医学的診断が同じプロセスであり、同じ目標と結果があるような印象を受けます。」(p.12)

アグリッパ・ゆうの読書日記(2023/05/07)『心病むわが子』(アン・デヴソン、堂浦恵津子訳、晶文社、1995)を読む

■表記の本を読む。原著は1991発行で少し古いが、書かれているのは今でも未解決な問題だ。心に残ったくだりを引用しておく。
 なお、言うまでもないが、下記に「分裂病」とあるのは、現在「統合失調症」と呼ばれている疾患である。この名称変更自体は、今は亡き「全家連」が学会に働きかけた成果だというが、成功例として評価すべきだろう。
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警官は病院に電話をした。‥‥「息子が母親をおどかしたり、とんでもないことをしでかすんですよ」
 受話器の向こうからなにやら声が聞こえてきたが、内容は判らなかった。警官がいった。「医者はどこが悪いのかと訊いています」
分裂病なんです」
分裂病だそうです」警官はしばらくむこうの話を聞いてからいった。「医者は分裂病なんてものはないといっています」
 なんという長い夜だろう、ジョナサンの心はきっと恐ろしさでいっぱいだろう。わたしは警官から受話器をつかみとった。このまぬけな医者、非常識な教科書の理論を頭につめこんだこの医者が納得するまでは、何時間でも電話を切らせない覚悟だった。あなたがなにもしてくれなかったら、どんな事態がおきても知りませんからね。‥ (p.167)

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 続いて、1984年のイギリスでのレインとのインタヴューのくだりには、こうある。

‥‥『狂気と家族』(邦訳、みすず書房刊)のなかでレインは、分裂病を患者の家族のコミュニケーションと深くむずびつけて見るという方法をとっているのだ。そしてなかでもとくに重点がおかれているのは親子のあいだのコミュニケーションだ。
(‥‥)
 時代そのものが混乱していたうえに、新しい研究方法が渇望されていた当時の風潮もあったのだろう。新しい精神医学理論の証明にたった十一の症例しか用いられていない事実は、ほとんど批判されなかったらしい。だからこそインタビューのなかでレインが明かした本音にわたしはすっかり仰天した。レインの話によれば、当時、彼らはいわゆる「ふつうの」家庭も調査してみた。その結果、ふつうの家庭のほうが、分裂病者をかかえている家庭よりもさまざまな点ではるかにコミュニケーションが不足していることが判明したというのだ。
 どう考えても、このときのわたしに彼の言葉のもつ重大な意味がじゅうぶんに判っていたとは思えない。気づいたのはかなりあとになってからのことだ。あの場で気づいていたら、わたしはきっと大声で彼につっかかっていたにちがいないーー「どうして、あなたはその結果を公表しなかったのですか?どうしてそのとき、ほんとうのことをいわなかったのですか?あのころ、あなたはまさに神さまのような存在だった。それにひきかえ親たちはみじめな罪人の立場におかれていたんですよ」(pp.405-406)

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 また、次のくだりも。

‥‥病気にたいする専門家の考えかたとじっさいに患者の家族が経験していることとのあいだには、あまりに大きなギャップがある。家族はいまだに同じ抗議をくり返さざるを得ないーー施設からの解放とは、なんら適切なサポートもなしに患者を家庭に、あるいは路頭に追いはらうという意味だったのか、と。(pp.409-410)

 

アグリッパ・ゆうの読書日記(2023/2/5)『精神破壊:うつ~統合失調症~入院~回復までの道のり』を読む

■『精神破壊:うつ~統合失調症~入院~回復までの道のり』(守門丈・守門紀著、東京図書出版、2018)を読む。

「‥‥子供の友達を泥棒と思い込むのは毎度のことであり、‥‥妻にとっては仕方のないことかもしれない。現実の記憶と想像したことの区別がつかないのだから。」(p.40)

「妄想の出るパターンはきまっており、朝起きた時「夢」がそのまま妄想になることや、今のパートで品出しの仕事中に物思いにふけり、それがそのまま妄想になるパターンである。」(p.44)

「‥‥最近気になる症状は、自分が想像したり勝手に作り上げたりした現実には起きていない妄想が現実の記憶と混同され、それを理由に人を恨んだりしていることである。私が富山県と石川県に仕事で毎週出張に行っていた時、石川県でとても仕事でお世話になっていた人の奥さんと私が浮気したというのである。」(p.68)

 つまり、フッサール想像論で解釈すると、統合失調症の妄想は、純粋想像(空想)から、「現実ではない」という非定立的意識が剥がれ落ちて、夢に似て一重の志向的意識構造になり、「再想起」や「現在想起」と区別がつかなくなったところに発生する、ということか。

研究日誌(2022/4/11)『こころの病いときょうだいのこころ: 精神障害者の兄弟姉妹への手紙』より。

■『こころの病いときょうだいのこころ : 精神障害者の兄弟姉妹への手紙』(滝沢武久著、京都:松頼社、2017)より。手紙に答える形での質疑応答から抜粋しておく。

Q「医師や支援者からは症状が安定してよくなっていると聞きましたが、発病前とはほど遠く、もどかしい思いがします。本人に多くを求めすぎなのでしょうか?」

A: 私もソーシャルワーカーになってから、家族やきょうだいの方からよくこのような意見を聞きました。たしかに、家族・きょうだいからすれば、発病する前の元気な本人に戻ることが「病気が治る」ことだと考えるのは、私にもよくわかります。一方で、医師や支援者は、本人が医療・福祉にかかってからの関係ですから、本人の状態の悪いときとくらべて「よくなっている」と見るのでしょう。けれども、この見方の違いだけのために、医師や支援者との関係が悪くなってしまっては本人のためにもなりません。はたして「回復する」ということを、どのように考えたらよいのでしょうか。

 精神科医はこころの病が「完治」するとは考えません。病いの原因がわからないことと、ふたたび状態が変化することもあるからです。だから精神医療では、投薬やカウンセリングを受けながらでも、精神状態が安定していることで良しとする「寛解」という表現を使います。発病する前の状態に戻って欲しいと願う家族・きょうだいには、医師や専門家の見方はなかなか受け入れにくいことかもしれません。しかし、それよりも本人にとって大切なのは、現在の生活ぶりとこれからの生き方です。‥‥」(p.156)

アグリッパ・ゆうの読書日記(2021/5/3)『当事者が語る精神障がいとリカバリー』で発見したゲームとホメロスの関係/当事者と家族のすれ違い

■『当事者が語る精神障がいとリカバリー:続精神障がい者の家族への暴力というSOS』(YPSヨコハマピアスタッフ協会&影山正子、編著、明石書店、2018)を読む。ためになる一文をみつけたので、忘れないうちに引用しておく。

「ひきこもっていた時、テレビゲームをずいぶんたくさんやりました。一つのゲームをクリアすると、映画の最後みたいに、製作に参加した人たちの名前がずらずらと画面にでてきます。その人数の多さには驚きました。子どもにとって有害だと、事あるごとに言われるテレビゲームですが、本当は多くの人たちが共同作業で作り上げた芸術作品なのではないか、その中に学ぶべきことがないはずはない。と今は思います。実際、大人になってからホメロスなどを少しかじった時、ゲームに引用されているエピソードが多いことに気づき、古典への素地を作ってくれる存在でもあったのだと、感慨深くもありました。」(p.34)

■当事者と家族のすれ違い

 この本は、『精神障がい者の家族への暴力というSOS』(蔭山正子)の続編として、「当事者が前作に書かれた家族の体験に答えるような形で書いている」(p.194)と蔭山さんはいう。

 けれど、悲しいことにすれ違いが目立つ。たとえばその同じ蔭山さんが、ある当事者の手記に書かれた次のような言葉を受けて、こんなことを書いているのだから。

 まず、当事者の文章の引用ーー「‥‥私が思うには暴力に怯えないで、まず相手本人を温かく迎えてあげることの大切さを痛感します。つまり、外出先でのやり場のない気持ちを外出先で対応できない弱者(精神障がい者)なのです。だからこそ帰宅後、母に当たるのです。私はそれは単に暴力ではないと思います。また、暴力に傾注する行為を精神疾患の病状発現で安易に片付ける精神医療関係者の診断も早急過ぎると思います。‥‥」(p.102)

 次が蔭山さんのコメント。

 「確かに、親に暴力をふるったことが生きる力になるという側面はあると思う。しかし、親は身体的暴力を受けないように、なるべく逃げてほしいと私は思う。藤井さんは、親に「暴力に怯えないで」というが、怯えるかどうかは反射的なものであり、意識して耐えられる類のものではない。PTSD(心的外傷後ストレス障害)になってしまえば、いくら当事者を大切に思っていても、顔を見ること、近づくこともできなくなることは少なくないのだ。私が「家族への暴力」というテーマを研究するきっかけになった母親もそうだった」(p.104)。

 このやり取りを読んで、当事者の側に現実認識の不全を感じるのは、私だけではないだろう。いかなる理由であっても暴力が許されなくなってきている現代社会において、このような主張が許容されるとしたらそれは、病状の一環と捉えられているからに他ならないのだから。

■母親の犠牲という問題

 そもそも、精神障がい者家族と言っても、実質的には母親が中心になるのがほとんどだろう。父親は仕事を口実に逃げていることが多いし、兄弟姉妹は自分の家族ができればそっちが第一になるし(私がひところ出ていた兄弟姉妹の会でもそうだった)。語弊を恐れずあえて言うならば、そんな、母親だけが犠牲になって成立するようなリカバリーが、本当にリカバリーの名に値するものだろうか。

 そんなことを思って落ち込んでしまった。蔭山さんの的確な応答が唯一の救いと感じられる。何とか研究と対話とを続けて、母親が犠牲にならなくとも済むような方法とシステム作りを考えていっていただきたいものだ。

付記>母親の体験については、下記のオープンアクセスジャーナル論文が参考になります。 「精神障害者を子にもつ母親の体験ー女性の生活史の観点からー」(佐藤朝子著、日本赤十字看護大学紀要No29、1-10、2006) https://ci.nii.ac.jp/naid/110006199574/

 痛切な事例の連続の末、次のくだりが結論となっています。ーー「本研究を通して、母親にとって子どもが精神病を発症することは、単に恐ろしい体験というだけでなく、自己のアイデンティティを揺るがし、過去ー現在ー未来のつながりを絶たれる体験であることがわかった」(p.10)。