アグリッパ・ゆうの読書日記(2021/5/3)『当事者が語る精神障がいとリカバリー』で発見したゲームとホメロスの関係/当事者と家族のすれ違い

■『当事者が語る精神障がいとリカバリー:続精神障がい者の家族への暴力というSOS』(YPSヨコハマピアスタッフ協会&影山正子、編著、明石書店、2018)を読む。ためになる一文をみつけたので、忘れないうちに引用しておく。

「ひきこもっていた時、テレビゲームをずいぶんたくさんやりました。一つのゲームをクリアすると、映画の最後みたいに、製作に参加した人たちの名前がずらずらと画面にでてきます。その人数の多さには驚きました。子どもにとって有害だと、事あるごとに言われるテレビゲームですが、本当は多くの人たちが共同作業で作り上げた芸術作品なのではないか、その中に学ぶべきことがないはずはない。と今は思います。実際、大人になってからホメロスなどを少しかじった時、ゲームに引用されているエピソードが多いことに気づき、古典への素地を作ってくれる存在でもあったのだと、感慨深くもありました。」(p.34)

■当事者と家族のすれ違い

 この本は、『精神障がい者の家族への暴力というSOS』(蔭山正子)の続編として、「当事者が前作に書かれた家族の体験に答えるような形で書いている」(p.194)と蔭山さんはいう。

 けれど、悲しいことにすれ違いが目立つ。たとえばその同じ蔭山さんが、ある当事者の手記に書かれた次のような言葉を受けて、こんなことを書いているのだから。

 まず、当事者の文章の引用ーー「‥‥私が思うには暴力に怯えないで、まず相手本人を温かく迎えてあげることの大切さを痛感します。つまり、外出先でのやり場のない気持ちを外出先で対応できない弱者(精神障がい者)なのです。だからこそ帰宅後、母に当たるのです。私はそれは単に暴力ではないと思います。また、暴力に傾注する行為を精神疾患の病状発現で安易に片付ける精神医療関係者の診断も早急過ぎると思います。‥‥」(p.102)

 次が蔭山さんのコメント。

 「確かに、親に暴力をふるったことが生きる力になるという側面はあると思う。しかし、親は身体的暴力を受けないように、なるべく逃げてほしいと私は思う。藤井さんは、親に「暴力に怯えないで」というが、怯えるかどうかは反射的なものであり、意識して耐えられる類のものではない。PTSD(心的外傷後ストレス障害)になってしまえば、いくら当事者を大切に思っていても、顔を見ること、近づくこともできなくなることは少なくないのだ。私が「家族への暴力」というテーマを研究するきっかけになった母親もそうだった」(p.104)。

 このやり取りを読んで、当事者の側に現実認識の不全を感じるのは、私だけではないだろう。いかなる理由であっても暴力が許されなくなってきている現代社会において、このような主張が許容されるとしたらそれは、病状の一環と捉えられているからに他ならないのだから。

■母親の犠牲という問題

 そもそも、精神障がい者家族と言っても、実質的には母親が中心になるのがほとんどだろう。父親は仕事を口実に逃げていることが多いし、兄弟姉妹は自分の家族ができればそっちが第一になるし(私がひところ出ていた兄弟姉妹の会でもそうだった)。語弊を恐れずあえて言うならば、そんな、母親だけが犠牲になって成立するようなリカバリーが、本当にリカバリーの名に値するものだろうか。

 そんなことを思って落ち込んでしまった。蔭山さんの的確な応答が唯一の救いと感じられる。何とか研究と対話とを続けて、母親が犠牲にならなくとも済むような方法とシステム作りを考えていっていただきたいものだ。

付記>母親の体験については、下記のオープンアクセスジャーナル論文が参考になります。 「精神障害者を子にもつ母親の体験ー女性の生活史の観点からー」(佐藤朝子著、日本赤十字看護大学紀要No29、1-10、2006) https://ci.nii.ac.jp/naid/110006199574/

 痛切な事例の連続の末、次のくだりが結論となっています。ーー「本研究を通して、母親にとって子どもが精神病を発症することは、単に恐ろしい体験というだけでなく、自己のアイデンティティを揺るがし、過去ー現在ー未来のつながりを絶たれる体験であることがわかった」(p.10)。