研究日誌(2023/9/30)脳は内から世界をつくる(G.ブザーギ著、日経サイエンス

■「脳は内から世界をつくる」(G.ブザーギ 日経サイセンス 2023.10月号、78-85)より、引用する。

 かつて若い講師だったころ、私は医学生向きの講義で、神経生理学を教科書どおりに教えていた。脳がいかに外界を知覚し、身体を制御しているか。眼や耳からの感覚刺激がどのように電気信号に変換され、脳の感覚野に送られて処理され、知覚が生まれるか。そして運動野の神経インパルスが脊髄の神経細胞へいかに指示を出し、筋肉を収縮させることで身体動作が始まるかを熱く語った。
 ほとんどの学生は、脳の入出力メカニズムに関するこの定型的な説明を受け入れた。しかしいつも少数の、とくに賢い学生が答えに困る質問をした。「知覚は脳のどこで起こるのですか?」「運動野の細胞が発火する前に、これから指を動かすことをどこが決めているのですか?」こうした問いを、私は「すべて大脳新皮質で起こります」とやりすごした。そして巧みに話題を変えるか、ラテン語由来の専門用語を使って、権威がありそうな説明でひとまず満足させようとしたのだった。
 他の若い研究者たちと同じように、脳の研究を始めたばかりの私は、この認知と行為に関する理論的な枠組みが本当に正しいかどうか、ほとんど疑っていなかった。長年、自身の研究の進展や、1960年代に「神経科学」という分野の誕生へとつながるめざましい発見の数々に満足していた。しかし、最も優秀な学生たちのもっともな質問に十分に答えられなかったことは、私を悩ませた。私は自分が本当に理解していないことを、人に説明しようとしていたのではないか。
 だが年をへると、この不満を抱えているのは私だけではないことがわかってきた。同僚の研究者たちも(本人が認めるかどうかはとにかく)同じ思いを持っていた。
(‥‥)
私たち神経科学者がここで足を踏み込んだのは「心とはいったいなにか?」という重い問いだ。(p.80)

研究日誌(2023/9/22)『マインド・フィクサー』より(続)

■『マインド・フィクサー』については、研究日誌(2023/9/4)でも引用したが、ようやく読了し、そして結論の末尾に近く、意義深い文章をみつけたので、抜粋しておきたい。

「これまでとは対照的に、新しい精神医学は謙虚さを美徳とし、自分たちが直面している科学的課題がどれほど複雑であるかを認めていく必要があるはずだ。‥‥結局のところ、現在の脳科学では、多くの、いやほとんどの精神活動の生物学的基盤について、まだ理解できていないのだ。」(p.276)

研究日誌(2023/09/19)『統合失調症は治りますか』(池淵恵美)より

■池淵恵美著『統合失調症は治りますか:当事者・家族・支援者の疑問に答える』日本評論社、2022)より、抜粋する。

「Q21 統合失調症という病気は治りますか。

Ans 私が一番残念に思っているのは、「人類がまだ統合失調症を克服できていない」ということです。‥‥精神医学、そして脳の研究はどんどん進んでいますから、それほど遠くない未来によい治療法が出現することに期待したいです。ただ、それは数年先だとか、そんなに近い未来ではなさそうです。‥‥」(p.64)

「‥‥統合失調症に伴う脳の不調には、次のようなものがあります。

①注意を集中したり、出来事を覚えたり、仕事の段取りをつけたりする神経認知機能の障害。

②相手の表情や動作から、気持ちや意図を察したり、おかれている状況を理解した入りする社会認知機能の障害。

③自分自身の感情や状態を理解する自己認識機能の障害。

④‥‥陰性症状

 ‥‥薬物で幻聴がよくなっただけでは元気に生活できるようにならないことが多いのは、この障害があるからです。」(pp.39-40)

 

研究日誌(2023/9/4)『精神科診断に代わるアプローチ PTMF』等を読んで

■『マインド・フィクサー精神疾患の原因はどこにあるのか?』(アン・ハリントン、松本 俊彦/監訳、金剛出版、2022 )を読む。

1963年から始まったアメリカの脱施設化について‥‥

「だが脱施設化による地域が進むと、精神保健・医療システムは患者に対処する能力をもはや失ったように見えた。”州立病院を閉鎖したことで、「責任の所在が地域社会に戻ったわけではないと思います。親に責任が押し付けられたのです!"[123]、”私たちが死んだら、子どもたちはどうなるのでしょうか”[124]、といった、システムの責任放棄やそのリスクの高さを指摘する声が聞かれた。」(p.178)

■『精神科診断に代わるアプローチ PTMF』M.ボイル・L.ジョンストン、北大路書房、2023)より。

「例えば、米国の国立メンタルヘルス研究所(国立精神生成研究所)の元所長であるスティーブン・ハイマン博士は、DSM-5を「完全に間違った、純然たる科学的悪夢」(Belluck & Carey 2013に引用)と表現しています。」(p.11)

「アンチ・スティグマ・キャンペーンでよく使われるスローガンには、「精神疾患は、他の疾患と同じです」というものもあります。/このようなことを言われると、精神科診断と医学的診断が同じプロセスであり、同じ目標と結果があるような印象を受けます。」(p.12)

アグリッパ・ゆうの読書日記(2023/05/07)『心病むわが子』(アン・デヴソン、堂浦恵津子訳、晶文社、1995)を読む

■表記の本を読む。原著は1991発行で少し古いが、書かれているのは今でも未解決な問題だ。心に残ったくだりを引用しておく。
 なお、言うまでもないが、下記に「分裂病」とあるのは、現在「統合失調症」と呼ばれている疾患である。この名称変更自体は、今は亡き「全家連」が学会に働きかけた成果だというが、成功例として評価すべきだろう。
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警官は病院に電話をした。‥‥「息子が母親をおどかしたり、とんでもないことをしでかすんですよ」
 受話器の向こうからなにやら声が聞こえてきたが、内容は判らなかった。警官がいった。「医者はどこが悪いのかと訊いています」
分裂病なんです」
分裂病だそうです」警官はしばらくむこうの話を聞いてからいった。「医者は分裂病なんてものはないといっています」
 なんという長い夜だろう、ジョナサンの心はきっと恐ろしさでいっぱいだろう。わたしは警官から受話器をつかみとった。このまぬけな医者、非常識な教科書の理論を頭につめこんだこの医者が納得するまでは、何時間でも電話を切らせない覚悟だった。あなたがなにもしてくれなかったら、どんな事態がおきても知りませんからね。‥ (p.167)

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 続いて、1984年のイギリスでのレインとのインタヴューのくだりには、こうある。

‥‥『狂気と家族』(邦訳、みすず書房刊)のなかでレインは、分裂病を患者の家族のコミュニケーションと深くむずびつけて見るという方法をとっているのだ。そしてなかでもとくに重点がおかれているのは親子のあいだのコミュニケーションだ。
(‥‥)
 時代そのものが混乱していたうえに、新しい研究方法が渇望されていた当時の風潮もあったのだろう。新しい精神医学理論の証明にたった十一の症例しか用いられていない事実は、ほとんど批判されなかったらしい。だからこそインタビューのなかでレインが明かした本音にわたしはすっかり仰天した。レインの話によれば、当時、彼らはいわゆる「ふつうの」家庭も調査してみた。その結果、ふつうの家庭のほうが、分裂病者をかかえている家庭よりもさまざまな点ではるかにコミュニケーションが不足していることが判明したというのだ。
 どう考えても、このときのわたしに彼の言葉のもつ重大な意味がじゅうぶんに判っていたとは思えない。気づいたのはかなりあとになってからのことだ。あの場で気づいていたら、わたしはきっと大声で彼につっかかっていたにちがいないーー「どうして、あなたはその結果を公表しなかったのですか?どうしてそのとき、ほんとうのことをいわなかったのですか?あのころ、あなたはまさに神さまのような存在だった。それにひきかえ親たちはみじめな罪人の立場におかれていたんですよ」(pp.405-406)

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 また、次のくだりも。

‥‥病気にたいする専門家の考えかたとじっさいに患者の家族が経験していることとのあいだには、あまりに大きなギャップがある。家族はいまだに同じ抗議をくり返さざるを得ないーー施設からの解放とは、なんら適切なサポートもなしに患者を家庭に、あるいは路頭に追いはらうという意味だったのか、と。(pp.409-410)

 

アグリッパ・ゆうの読書日記(2023/2/5)『精神破壊:うつ~統合失調症~入院~回復までの道のり』を読む

■『精神破壊:うつ~統合失調症~入院~回復までの道のり』(守門丈・守門紀著、東京図書出版、2018)を読む。

「‥‥子供の友達を泥棒と思い込むのは毎度のことであり、‥‥妻にとっては仕方のないことかもしれない。現実の記憶と想像したことの区別がつかないのだから。」(p.40)

「妄想の出るパターンはきまっており、朝起きた時「夢」がそのまま妄想になることや、今のパートで品出しの仕事中に物思いにふけり、それがそのまま妄想になるパターンである。」(p.44)

「‥‥最近気になる症状は、自分が想像したり勝手に作り上げたりした現実には起きていない妄想が現実の記憶と混同され、それを理由に人を恨んだりしていることである。私が富山県と石川県に仕事で毎週出張に行っていた時、石川県でとても仕事でお世話になっていた人の奥さんと私が浮気したというのである。」(p.68)

 つまり、フッサール想像論で解釈すると、統合失調症の妄想は、純粋想像(空想)から、「現実ではない」という非定立的意識が剥がれ落ちて、夢に似て一重の志向的意識構造になり、「再想起」や「現在想起」と区別がつかなくなったところに発生する、ということか。

研究日誌(2022/4/11)『こころの病いときょうだいのこころ: 精神障害者の兄弟姉妹への手紙』より。

■『こころの病いときょうだいのこころ : 精神障害者の兄弟姉妹への手紙』(滝沢武久著、京都:松頼社、2017)より。手紙に答える形での質疑応答から抜粋しておく。

Q「医師や支援者からは症状が安定してよくなっていると聞きましたが、発病前とはほど遠く、もどかしい思いがします。本人に多くを求めすぎなのでしょうか?」

A: 私もソーシャルワーカーになってから、家族やきょうだいの方からよくこのような意見を聞きました。たしかに、家族・きょうだいからすれば、発病する前の元気な本人に戻ることが「病気が治る」ことだと考えるのは、私にもよくわかります。一方で、医師や支援者は、本人が医療・福祉にかかってからの関係ですから、本人の状態の悪いときとくらべて「よくなっている」と見るのでしょう。けれども、この見方の違いだけのために、医師や支援者との関係が悪くなってしまっては本人のためにもなりません。はたして「回復する」ということを、どのように考えたらよいのでしょうか。

 精神科医はこころの病が「完治」するとは考えません。病いの原因がわからないことと、ふたたび状態が変化することもあるからです。だから精神医療では、投薬やカウンセリングを受けながらでも、精神状態が安定していることで良しとする「寛解」という表現を使います。発病する前の状態に戻って欲しいと願う家族・きょうだいには、医師や専門家の見方はなかなか受け入れにくいことかもしれません。しかし、それよりも本人にとって大切なのは、現在の生活ぶりとこれからの生き方です。‥‥」(p.156)