アニメ『竜とそばかすの姫』の舞台高知と記憶の不思議

■昨日(2021年10月6日)は、緊急事態制限解除に乗じ、ひさしぶりに映画館に足を運んだ。

細田守監督の『竜とそばかすの姫』が上映中だったので、さっそく入場した。
面白かったけれど、ここで書くのは作品内容についてでない。

主人公の高校生すずが通学に通う駅に、とつぜん「須崎」の字が出てきて、アレ、もしや高知と思っていたら、乗降駅が「伊野」とあって、やはりそうかと思った。

伊野は、私の最初の就職先だった高知大学があるJR朝倉駅の次の駅だ。高知駅からは西に行くJRの3つ目の駅に当たる。
赴任して間もないころ、紙の博物館というのがあるというので行ったことがあるが、ほとんど覚えていない。
また、伊野のそばを流れている大きな川が出てくるが、これは鏡川だと見当がついた。
懐かしい。
最初の2年ほどは、大学近くの官舎にいて、大学正門そばの朝倉から、路面電車の土佐電で鏡川の鉄橋を渡ってよさこい橋のある中心街に行っていたものだった。

その後、市の東側の土佐湾ぞいの官舎に移ったので、1時間かけて土佐電で朝倉まで通勤し、鏡川の鉄橋も毎日のように往復することになった。

そんななじみ深い鉄橋だから、高知を去って関東に移ってからも、ときどき夢に見た。
夢では鏡川は現実よりもずっと幅が広く、鉄橋も両側の鉄骨がなく線路が川にむき出しになっていて、なにやら不安な感じだった。
そして、現実の高知と鏡川鉄橋を思い出そうとすると、替りに夢の情景の方がよみがえってきてしまう。

今朝見た夢ならば現実ではなく夢だとたやすく区別できる。
ところが何十年も昔のことだと、現実と夢との区別があいまいになってしまう。

現実と夢とを区別する基準である、ストーリーとしての脈絡が、古い過去の記憶だと失われるからに違いない。古い記憶だと印象に残った情景だけがポツンと孤立して思い起こされるので、印象に残った夢の場面だけがポツンと孤立して思い出されるのと、区別がつきにくくなるのだ。
とはいえ、確実に現実の記憶だという情景がないではない。
その一つに、鏡川の堤防内の草むらで、小学校高学年ぐらいの3人の少女が踊りの練習をしている場面があった。ラジカセをそばに置いて、流行のダンスの稽古に一心不乱という感じだった。ひょっとしたら3人グループでのデビューを夢見ていたのかもしれない。
 今から40年ほど前の思い出である。
 そんなことを、映画を見た後の昨夜、色々思ったのだった。

研究日誌(2021/9/3)Paul Ricoeur, "Hermeneutics and the human sciences"再読(2)

■Paul Ricoeur, "Hermeneutics and the human sciences: Essays on language, action and interpretation"(Edited,translated and introduced by J. B. Thompson, Cambridge: Cambridge University Press, 1981)からの引用を続ける。

4. The hermeneutical function of distanciation (pp. 131-144)より 

p.143 Ultimately, what I appropriate is a proposed world. The latter is not behind the text, as a hidden intention would be, but in front of it, as that which the work unfolds, discovers, reverals. Henceforth, to understand is to understand oneself in front of the text.〔究極的には、私が我有化する世界は想定された世界である。この世界は隠された〔作者の〕意図としてテクストの背後にあるのではなく、作品がひらき、発見し、あばくものとして、テクストの面前にある。ここにおいて、理解するとはテクストの面前で自己を理解することである。〕

 「地平」という語を使うならば、このくだりが「他者の書いたテクストを読むとは新たな地平をひらくことである」という表現の根拠となる。

p.144 Reading introduces me into the imaginative variations of the ego. The metamorphosis of the world in play is also the playful metamorphosis of the ego.〔読むことに依って私は、自我の想像的変更へと導かれる。演劇における世界の変容はまた、自我の演劇的変容でもある。〕

 

 

どこへいった「罪を憎んで人を憎まず」の精神:池袋暴走死傷事件裁判に思う

先日(9/2)に判決が出た池袋暴走死傷事件は、事件そのものよりそれへの反応の方が、今までになく後味の悪いものになってしまっている。

 遺族の気持ちは分かるとしても、本来やるべきことは二度とこのような事件が繰り返されないよう制度的改革を働きかけることのはずだ。

 その方が絶対、亡くなった家族にも喜んでもらえるに違いないのだから。

 20年以上前のことになるが、山口県光市の母子殺害事件というのがあって、遺族がテレビ出演していて、(犯人が)出所してきたら殺します、と物騒なことを言っていた。

 その遺族にしても少なくとも犯罪被害者救済制度の推進には大いに功績があった。

 ところが今回の事件では、ひたすら被告への復讐欲だけが目立ってしまう。これが報道の仕方から受ける誤解ならいいのだが。

 被告が謝罪や反省の姿勢を見せないのがヘイトを買っている理由だと考える人も多いが、元々日本計量学会会長も歴任した理系研究者であって、私も理系大学に長年勤めていた経験から言うと、理系人には自分で理に合わないと思ったことには絶対妥協しないというところがある。

 被告も、確かにブレーキを踏んだのだから車が悪いと信じ込んでいるのだろう。これが政治家や芸能人なら一も二もなく平謝りしている筈だ。

 控訴しないで欲しいと遺族側はいっているが、ブレーキを踏んだのだから車が悪いと信じている以上、裁判という基本的人権に属する公開の場で決着をつける他ないではないか。

 そもそも、普段は加害者のプライヴァシー暴きに余念のないマスコミが、今回は理系の研究者のポストでもある元通産省工業技術院院長という正式な肩書を付けず、通産省幹部としか言わないところにも、「上級国民」という醜悪なヘイトイメージを固定させようという悪意を感じないでいられない。

 一方でパラリンピック障がい者のスポーツを賛美する同じテレビ画面で、次には杖をついた、認知症の気もある90歳の老人を寄ってたかって袋叩きにする。こんな醜悪な光景を流すのはいいかげんやめにしてほしいものだ。

 これでは、かつてラフカディオ・ハーンが明治大正の日本人に見出して賛美した、罪を憎んで人を憎まずの精神も地を払ったとしか言いようがない。

 大学で教えていた頃、卒業パーティの席で学生に、聖書のエピソードを引いて「たとえ寄ってたかって石を投げられようと、決して投げる側になってはならない」と語ったことがある。このところの日本は、マスコミと言いSNSといい、一億人がこぞって石を投げる側になろうと狂奔ているとしか見えない。

 

研究日誌(2021/9/3)Paul Ricoeur, "Hermeneutics and the human sciences"を再読する

■Paul Ricoeur, "Hermeneutics and the human sciences: Essays on language, action and interpretation". Edited,translated and introduced by J. B. Thompson, Cambridge: Cambridge University Press, 1981. 

リクールの1980年頃までの著作をまとめた便利な本。

"1. The task of hermeneutics"(pp. 43-62)より引用しておく。

Another index of the dialectic of participation and distanciation is provided by the concept of the fusion of horizons (Horizontverschmelzung). (p.61)

Whenever there is a situation, there is an horizon which can be contracted or enlarged. We owe to Gadamer this very fruitful idea that communication at a distance between two differently situated consciousness occurs by means of the fusion of their horizon, ...This concept signifies that we live neither within closed horizons, nor withins one unique horizon.(p.62)

リクールがガダマーから受け取った最も実りある概念である「地平融合」を、私の知る限り最も平易に定義した箇所。

目下構想中の、副題:手記を読みながらの現象学当事者研究、の中でも引用したい。

 

信憑性を増すコロナウィルス武漢研究所流出説

文芸春秋』2021年8月号にも長文のレポート「武漢ウィルス人工説を追え!」(近藤奈香)が載り、コロナウィルス武漢研究所流出説がいよいよ信憑性を増してきた。
 私は最初から疑っていた。武漢のウィルス研究所から800メートルしか離れていない市場から感染が広がったという定説では、偶然の一致が過ぎるからだ。中国寄りとされるWHOの再調査要求さえ習近平政権が撥ね付けたというのも、それだけますます、国家存亡の大秘密を死守しようという姿勢が窺われて、疑念をかきたてる。
 ところがこの、武漢ウィルス研究所流出説は、テレビでは殆ど報道されない。
NHKで2020年末にとりあげたことがあったが、その時はトランプ大統領のいかにも凶悪そうな写真と一緒という具合で、最初から陰謀論を印象付けようとする情報操作が見え見えという、ひどいものだった。
お陰で日本人の多くは未だに、陰謀論を信じているらしい。このようなマスコミの自己規制ぶりには、外圧以前の内なる呪縛を感じてしまう。
 最近、人文死生学研究会で同じ世話人をしている蛭川立さんとメールのやり取りをすることがあって、やはり以前から流出説(漏洩説と言っているが)を疑っていたということなので、紹介していただいたブログ記事のURLを引用しておく。
 たいへん充実したものだと思うしはてなブログでもあり、紹介には問題ないと思う。
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https://hirukawa-archive.hatenablog.jp/entry/2020/05/20/115650 -------------------------------
<補足>新型コロナウイルスが中国の武漢ウイルス研究所で人為的に作られた事は、香港大学の閻麗夢博士が、既に告発している。その後、身の危険を感じて米国へ亡命したが、彼女は同大学の上司からの指示によって同ウイルスの初動調査を行っており、また、告発は初期の段階、即ち政治的な影響を受ける可能性の低い段階で行われている為、信憑性はかなり高い。
ちなみに、その後の中国政府は、真実を隠蔽する為、SNS・メディア・政治的圧力等あらゆる手段を使って、彼女が発信する情報が否定されるように徹底的な情報工作を行い、彼女自身の人格否定までしているらしい。
<補足2>2023年2月27日。
 その後出た『新型コロナは何処から来たのか:国際情勢と科学的見地から探るウィルスの起源』(シャーリ・マークソン著、高崎拓哉訳、ハーパーコリンズジャパン、2022)も一読。紀伊国屋書店の内容紹介より以下引用する。
内容説明
「新型コロナはコウモリ由来で自然変異のウイルスである」。WHOは2021年の調査でそう結論づけた。だが実際は多くの事象が「武漢研究所からの流出」の可能性を示唆し、権威ある研究者の中にもそれを論じる者は少なくない。ウイルスの本当の起源はどこなのか。流出説はなぜ陰謀論として切り捨てられたのか。取材を通じて見えてきたのは、「研究所由来」に寄った論文が検閲され、公正なはずの調査団が骨抜きになり、議論が封じ込められてきた事実。そして中国共産党の世界戦略、米政権の対立構造が複雑に絡み合った権力者たちのパワーゲームだった―。未曾有のパンデミックの裏側で起きていた出来事を、多角的に徹底検証!

 

研究日誌(2021/8/8)『数学に魅せられて科学を見失う:物理学と「美しさ」の罠』(ホッセンフェルダー著、吉田三知世訳、みすず書房、2021)を読みながら、人文死生学研究会の発表を反省する

理論物理学で現在人気のテーマは、単純さ、自然さ、そしてエレガントさだ。これらの言葉は、厳密に言えば、恒久的な定義を得ることは決してないし、私も本書でこれらを定義しようと試みるつもしはない。これらの言葉がいまどのように使われているかということだけ、お話ししよう。」(ザビーネ・ホッセンフェルダー、p.112)

 以上、引用しながら、先日の(8/1)人文死生学研究会(第19回)の発表「アニメとフランス小説に見る自我体験からの死生観展開」で質問に十分答えられなかった諸点を考えたい。

問:私の死と同時に世界が消えるという世界消滅説をなぜ採用しないのか?
答:「単純さ」はあっても「自然さ」がないからだ。自然さとはこの場合、信じられること、という意味になる。終活をしながらつくづく思ったが、やはり世界消滅説を私は信じてはいない。その意味で、「自然さ」がない。

問:

<作業中>

 

出版のお知らせ『明日からネットで始める現象学:夢分析からコミュ障当事者研究まで』(新曜社刊)

■『明日からネットで始める現象学:夢分析からコミュ障当事者研究まで』(渡辺恒夫著、新曜社、2310円)が6月20日に発売になったので、お知らせします。

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差し支えない範囲で、「はじめに」の冒頭部分を以下に引用します。

【はじめに】
 心理学というと親しみやすく感じられる。けれど現象学ときたら、一世紀前にはじまった哲学の一派でいかにもムツカシそう、と思っていませんか。
 ところが、それはちょっと違うのです。
 現象学は元来が心理学であり、それも最も心理学らしい心理学なのです(中略)。なぜなら、現象学とは、自分自身の体験の世界を観察して記述し、体験の意味を明らかにする学問だからです。
 自分の体験を記述するなどというと、なんだか日記を付けることから始まる学問みたいに響くかもしれません。じじつ、日記というのは現象学の重要な材料のひとつなのです。
 といっても、学問をはじめるには、「なぜ?」という問いに、謎に、直面することが必要です。万学の祖といわれる古代ギリシャアリストテレスは、「学問の始まりは驚きである」ということばを残しています。でも、私たちの日々の生活のなかでは、驚きや謎の感覚をひきおこして、観察し記述しその意味を解きたくなるような体験が、はたして簡単に見つかるでしょうか。
 それが、あるのです。毎夜、私たちが見る夢が、それなのです。
 精神分析の祖、フロイトは、「夢は無意識への王道である」という有名なことばを残しました。1900年のことです。それから120年ほどたった今、私はあえて次のようにいうことにしています。
 夢は現象学への王道である。
 そう。現象学を学ぶのに、現象学入門といったムズカシそうな本を読むことから始める必要はありません。まず、現象学を使ってみること、現象学することが、一番いいのです。
 現象学するのに、その第一歩が明日の朝から夢日記をつけ始めることなのです。
(後略)

【目次】

第一部入門篇
第Ⅰ章 手作りの科学としての夢研究――物語論現象学分析
Ⅰ―1 夢日記をつけるーーデータ収集
Ⅰ―2 夢データをウェブ公開する
 Ⅰ―3 夢分析第1段階(ユングの物語構造論的分析)――夢は四幕劇である
 Ⅰ―4 夢分析第2段階(異世界分析)――夢は異世界転生である
 Ⅰ―5 夢分析第3段階(現象学分析)――夢世界の原理を手引きとして
 Ⅰ―6 夢分析第4段階(夢の意味)――夢という物語に隠れた心理的現実
第Ⅱ章 現象学超入門(一)体験世界の志向性構造
 Ⅱ―1 現実世界の体験構造
 Ⅱ―2 夢世界の体験構造――未来や過去を現在として生きる夢、空想や小説を現実として生きる夢
 Ⅱ―3 意識の志向的構造――現象学の基本中の基本
 Ⅱ―4 夢世界での志向性構造の変容――「夢世界の原理①②」の解明
 Ⅱ―5 レイコフのメタファー論――「夢世界の原理③④」の解明
第Ⅲ章 夢シリーズの物語論現象学分析
 Ⅲ―1 夢事例6「海の彼方からの侵略で逃げ惑う夢」
Ⅲ―2 夢事例7「子犬が蝉になる夢」
Ⅲ―3 夢という現象学の王道を歩んでこそ得られる、内面世界への確信
第Ⅳ章 現象学超入門(二) フッサール現象学
Ⅳ―1 ブレンターノと志向性の発見
Ⅳ―2 ブレンターノからフッサールへーー実験現象学者たち
Ⅳ―3 難しくなりすぎたフッサール現象学――超越論的現象学と心理学的現象学
Ⅳ―4 現象学的還元とエポケー
Ⅳ―5 デカルトの方法的懐疑とフッサール現象学
Ⅳ―6 夢の現象学現象学的還元から始まる
Ⅳ―7 本質観取――現象学的方法の次の段階
Ⅳ―8 夢研究における本質観取

第二部応用篇
第Ⅴ章 現代へ向かう現象学の展開――ハイデガーからリクールまで
 Ⅴ-1 現象学的哲学の三つの時代と現象学的心理学の三つのアプローチ
 Ⅴ-2 実存主義的転回の時代
(1)ハイデガーの登場/(2)サルトルとまなざしの現象学/(3)付論 他者問題とは何か/4)メルロー・ポンティと『幼児の対人関係』
Ⅴ-3 解釈学的転回の時代(1960―2005)――ガダマーとリクール
第Ⅵ章「コミュ障」の当事者研究――インターネット相談事例をもとに
 Ⅵ―1 コミュ障とは
 ・コミュ障とは/「コミュニケーション能力テスト」をやってみると/アッパー型コミュ障?/読んではいけない!「専門家」によるコミュ障本ふたつ/コミュ障の同義語としての「人づきあいが苦手」
 Ⅵ―2 自分を猫だと思えますか?――相談事例への卓抜な回答
 ・ネット相談事例1女性――「人づきあいが苦手で人生が苦痛です」/一人称的読みーー現象学の出発点/「地平」をひらき「地平融合」に達する/他者の心を読まないことが雑談に加わる資格!?
 Ⅵ―3 ナラティブの種類でアドヴァイスを分類すると
 ・レス(回答)が因果物語りになっている件/リクールのナラティブ現象学でレスを分類する(1親のせいナラティブ・2社会のせいナラティブ・3脳のせいナラティブ・「共」のナラティブvs「独」のナラティブ)
 Ⅵ―4 オモテ世界のコミュ障とネット世界のコミュ障の違い
 Ⅵ―5 職場の困難を訴える男性事例 付 コラム「私が心理臨床家にならなかった理由
 Ⅵ―6 結論と展望
第Ⅶ章 現象学の過去から未来へ
Ⅶ-1「現象学すること」のおさらい
 1)エポケーに始まる現象学的還元/2)本質観取
Ⅶ-2 現代へ向かう現象学の展開(二)――心理学・精神医学篇
1) ヤスパース精神病理学/2)現象学的精神医学の興亡/3)現象学的心理学の新たなる登場/4)現象学的分析段階進行表による「夢世界の原理」の導出/5)現象学的分析手続きのモデル化
Ⅶ-3 現象学の未来ーー万人の万人による万人のための現象学
読書案内・あとがき