Marc Richir (2006): Leiblichkeit et Phantasiaで指摘されるフッサール間主観性論のパラドックス構造

Psychothérapie phenoménologique , sous ladirection de Mareike Wolf-Ferida (Paris: MJW Fedition, 2006) がアマゾン経由で来たので、Ⅲ. Leiblichkeit et Phantasia, par Marc Richir (pp. 35-45) を読み始める。

 思っていた通り、ひどく難解。

けれど、私がかつて、人間的世界経験のパラドックス構造と名づけて、情報コミュニケーション学研究の論文(2014)で述べ、『人文死生学宣言』でフッサール解読にことよせてパラフレーズしていた事態に相当することを述べているような箇所があったので、以下に該当部分を試訳しておく。

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p.36

 けれども、それが何であれ、もし根源的なもの(primordiale)が単に分析の方法的一段階ではなく、実際に現象学的根拠を備えるとしたら、パラドックスが再燃する(そして困難を複雑化する)。‥‥‥‥

<作業中>

 

アグリッパ・ゆうの読書日記(2021/12/14)『女装の剣士シュヴァリエ・デオンの生涯』に深甚なる感銘を受ける

窪田般弥著『女装の剣士シュヴァリエ・デオンの生涯』(白水社、1995)を遅まきながら一読しました。

 シュヴァリエ・デオンものは、アニメ「シュヴァリエ」、斎藤明子作『仮想の騎士』と、今世紀に入ってからのフィクションものに接してきて、もう一つ肝心のデオンの実像がはっきりしないという、不満が残っていました。

 で、フランス文学者として以前から名をしっている窪田氏の前世紀末の本格評伝を図書館で見つけて一読。読後感は、深甚なる衝撃、といったところでしょうか。こんな謎めいた妖美な人物が実在したなんて。

 もちろんフランスの外交官でしかも国王直属の密偵として女装してロシア宮廷に乗り込み、女帝エリザヴェータに取り入ったのも凄い。でも、若さと美貌があれば何とかなるものです。

 だから凄いのはロンドンに全権代理公使として赴任中の中年になって政敵から、本当は女だという噂を流されたこと。竜騎兵隊長の肩書を持ち、いつも軍服でいたし、パリ随一の剣客という評判まであっても、本当は女だと噂を流され、しかも広く信じ込まれるなんて、よほど外見にそのような素質があったのでしょう。

 この噂を逆手にとって、49歳の時から自分でも本当は女性だと主張するようになります。当時はロンドンで新任大使との抗争の真っただ中だったのですが、政敵に派遣されてきたボーマルシュもデオンに惚れて、結婚を申し入れたりしたらしい。

 でも、持ち前の激情が災いして、せっかくの王室からの有利な年金支給の話も自分でけってしまったし、なによりもフランス革命以後は収入も途絶えてしまった。そこで、女装で剣技を披露して生活の糧としようと、ロンドン随一という評判の、自分より20歳以上若い剣士にスカート姿で挑み、大方の予想を覆して圧勝して見せたりするのです。

 けれど、評者がもっとも謎を感じるのは、負傷して剣を取れなくなって貧窮のどん底に落ちて以来、かつての友人の未亡人と同居して82歳まで生きるのですが、死後、医師の手で肉体的に男性だと暴露されるまで、この未亡人も女性だと疑わなかったこと。ふつうは女性を相手に露見されないのは相当困難で、特に長らく同居している場合はまず不可能だと思うのですが、見事にパッシングしおおせたのです。一番の問題は声なのですが、「甘い声」とどこかに書いてあったように、女性的な声だったのかもしれません。そういえば、これはフィクションですが『仮想の騎士』にも「涼やかなアルト」と描写があったし。

 25歳までに学位を2つも取るなど文芸の才にも恵まれ

<作業中>

 

 

 

映画『リトル・ガール』を見る

■昨日(11/25)は、新宿まで足を伸ばして武蔵野館で『リトル・ガール』(セバスチャン・リフシッツ監督、フランス、2020)を見た。

コロナ騒ぎが始まって以来、新宿は乗換ポイントとして通るだけだったので、街を歩いたのは2年ぶりになるだろうか。平日の昼前なのに結構な人出だった。

『リトル・ガール』は、原題 petite fille をそのまま英訳した語。「女の子」というのが一番ぴったりな和訳だ。主演のサシャは男の子として生まれた。でも心は女の子。どうしても女の子になりたい。7歳でもうじき小学校2年になるというサシャの願いを母親はじめ家族みんなで応援して、パリに行って専門の児童精神科医にも会い、性別違和という診断を貰い、学校側にも女の子として認めさせようと静かに闘うのです。でも、ずっと通っていたバレエ教室では、女性として認めないと言われて母子共々追い出されたりして。とてもつらい経験なのに周囲に心配をかけまいとじっと耐える表情に、見ている方が涙が出てきます。

 夜、ベッドで目を瞑っても、サシャの愛らしくけなげな横顔がまざまざと浮かび上がるほどに、感銘を受けました。フランス映画らしく、悲しいまでに繊細で美しい、フィナーレ近くから流れたドビッシーの「夢」がピッタリ来る珠玉作です。これでドキュメンタリーだというのだから驚き。

 それにしてもMtF性別違和を取り巻く一般社会の反応は、60年前の日本とたいして変わっていないなと、カルーセル麻紀をモデルとした小説『緋の河』(桜木紫乃、2019)を思い浮かべて比べた感想です。違いといえば児童精神科医による診断・治療の機会ぐらいか。この小説については、オンラインジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』2号に「美女になるという運命の呼び声を聞いた男の子の物語」と題した書評を載せておいたので、参考までに。

 カルーセル麻紀の時代には水商売か芸能界入りぐらいしか選択肢がなかったのに対して、サシャは普通の女性として生きようとしている、そこが進歩といえばいえるかな。また、第二次性徴発現前に抗ホルモン療法を始めるかどうか決めなければならないと、女性の児童精神科医に言われるところが興味深かったです。
 たとえば、前立腺ガンの治療に使われる抗アドレナリン薬のビカルタミドみたいに、毎日内服して細胞のアドレナリンレセプターに蓋をする作用の薬でしょうか。女性ホルモンの方は男の子の体でも分泌が続くので、アドレナリンの作用が消えたぶんだけ女性的性徴が発現するはずです。ちょうど、精巣性女性化症のように、染色体はXY型でも外見は完璧な女性になる可能性があります。ただし不妊なのはどうしようもないのですが。

 ちなみにあれからドビッシーの「夢」を繰り返し繰り返し聞いています。これからも聞くたびにこの映画のことを思い出すでしょう。サシャの幸せを祈らずにはいられません。
 

心理学者正高信男氏の論文不正報道について

■もう一週間前になるが、京大霊長研所属(今年度定年退職)の心理学者正高信男氏に論文不正があったことが大学側の調査で判明したというニュースを読んだ。

  ああ、やっぱり、と思った。氏の著書といえば、数年前に自分のコミュ障研究の必要性から、『コミュ障ーー動物性を失った人類』(講談社ブルーバックス、2015)を読んだだけだが、あまりのデタラメぶりに担当編集者に抗議したくなった。ブルーバックスのような一応は権威ある(?)レーベルの編集者の癖にこんな本を書かせて著者の晩節を汚させた、といったように。

 だから、今年の6月に出した『明日からネットで始める現象学』では、わざわざ、<読んではいけない!「専門家」によるコミュ障本>という小見出しを設けて槍玉にあげて置いた(pp.114-116)↓↓↓

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 正高本の方は読むだけ時間の浪費だったとさっさと古本屋に売ってしまって手元にないが、記憶の限りでは今回の捏造実験の元になったアイデアらしきものが書いてあったような。

 ネット検索すると正高氏は小保方晴子の新刊をずいぶんと批判しているが、やっていることは大同小異だ。心理学界全体が迷惑するからこういうことはやめて欲しいものだ。

アニメ『竜とそばかすの姫』の舞台高知と記憶の不思議

■昨日(2021年10月6日)は、緊急事態制限解除に乗じ、ひさしぶりに映画館に足を運んだ。

細田守監督の『竜とそばかすの姫』が上映中だったので、さっそく入場した。
面白かったけれど、ここで書くのは作品内容についてでない。

主人公の高校生すずが通学に通う駅に、とつぜん「須崎」の字が出てきて、アレ、もしや高知と思っていたら、乗降駅が「伊野」とあって、やはりそうかと思った。

伊野は、私の最初の就職先だった高知大学があるJR朝倉駅の次の駅だ。高知駅からは西に行くJRの3つ目の駅に当たる。
赴任して間もないころ、紙の博物館というのがあるというので行ったことがあるが、ほとんど覚えていない。
また、伊野のそばを流れている大きな川が出てくるが、これは鏡川だと見当がついた。
懐かしい。
最初の2年ほどは、大学近くの官舎にいて、大学正門そばの朝倉から、路面電車の土佐電で鏡川の鉄橋を渡ってよさこい橋のある中心街に行っていたものだった。

その後、市の東側の土佐湾ぞいの官舎に移ったので、1時間かけて土佐電で朝倉まで通勤し、鏡川の鉄橋も毎日のように往復することになった。

そんななじみ深い鉄橋だから、高知を去って関東に移ってからも、ときどき夢に見た。
夢では鏡川は現実よりもずっと幅が広く、鉄橋も両側の鉄骨がなく線路が川にむき出しになっていて、なにやら不安な感じだった。
そして、現実の高知と鏡川鉄橋を思い出そうとすると、替りに夢の情景の方がよみがえってきてしまう。

今朝見た夢ならば現実ではなく夢だとたやすく区別できる。
ところが何十年も昔のことだと、現実と夢との区別があいまいになってしまう。

現実と夢とを区別する基準である、ストーリーとしての脈絡が、古い過去の記憶だと失われるからに違いない。古い記憶だと印象に残った情景だけがポツンと孤立して思い起こされるので、印象に残った夢の場面だけがポツンと孤立して思い出されるのと、区別がつきにくくなるのだ。
とはいえ、確実に現実の記憶だという情景がないではない。
その一つに、鏡川の堤防内の草むらで、小学校高学年ぐらいの3人の少女が踊りの練習をしている場面があった。ラジカセをそばに置いて、流行のダンスの稽古に一心不乱という感じだった。ひょっとしたら3人グループでのデビューを夢見ていたのかもしれない。
 今から40年ほど前の思い出である。
 そんなことを、映画を見た後の昨夜、色々思ったのだった。

研究日誌(2021/9/3)Paul Ricoeur, "Hermeneutics and the human sciences"再読(2)

■Paul Ricoeur, "Hermeneutics and the human sciences: Essays on language, action and interpretation"(Edited,translated and introduced by J. B. Thompson, Cambridge: Cambridge University Press, 1981)からの引用を続ける。

4. The hermeneutical function of distanciation (pp. 131-144)より 

p.143 Ultimately, what I appropriate is a proposed world. The latter is not behind the text, as a hidden intention would be, but in front of it, as that which the work unfolds, discovers, reverals. Henceforth, to understand is to understand oneself in front of the text.〔究極的には、私が我有化する世界は想定された世界である。この世界は隠された〔作者の〕意図としてテクストの背後にあるのではなく、作品がひらき、発見し、あばくものとして、テクストの面前にある。ここにおいて、理解するとはテクストの面前で自己を理解することである。〕

 「地平」という語を使うならば、このくだりが「他者の書いたテクストを読むとは新たな地平をひらくことである」という表現の根拠となる。

p.144 Reading introduces me into the imaginative variations of the ego. The metamorphosis of the world in play is also the playful metamorphosis of the ego.〔読むことに依って私は、自我の想像的変更へと導かれる。演劇における世界の変容はまた、自我の演劇的変容でもある。〕

 

 

どこへいった「罪を憎んで人を憎まず」の精神:池袋暴走死傷事件裁判に思う

先日(9/2)に判決が出た池袋暴走死傷事件は、事件そのものよりそれへの反応の方が、今までになく後味の悪いものになってしまっている。

 遺族の気持ちは分かるとしても、本来やるべきことは二度とこのような事件が繰り返されないよう制度的改革を働きかけることのはずだ。

 その方が絶対、亡くなった家族にも喜んでもらえるに違いないのだから。

 20年以上前のことになるが、山口県光市の母子殺害事件というのがあって、遺族がテレビ出演していて、(犯人が)出所してきたら殺します、と物騒なことを言っていた。

 その遺族にしても少なくとも犯罪被害者救済制度の推進には大いに功績があった。

 ところが今回の事件では、ひたすら被告への復讐欲だけが目立ってしまう。これが報道の仕方から受ける誤解ならいいのだが。

 被告が謝罪や反省の姿勢を見せないのがヘイトを買っている理由だと考える人も多いが、元々日本計量学会会長も歴任した理系研究者であって、私も理系大学に長年勤めていた経験から言うと、理系人には自分で理に合わないと思ったことには絶対妥協しないというところがある。

 被告も、確かにブレーキを踏んだのだから車が悪いと信じ込んでいるのだろう。これが政治家や芸能人なら一も二もなく平謝りしている筈だ。

 控訴しないで欲しいと遺族側はいっているが、ブレーキを踏んだのだから車が悪いと信じている以上、裁判という基本的人権に属する公開の場で決着をつける他ないではないか。

 そもそも、普段は加害者のプライヴァシー暴きに余念のないマスコミが、今回は理系の研究者のポストでもある元通産省工業技術院院長という正式な肩書を付けず、通産省幹部としか言わないところにも、「上級国民」という醜悪なヘイトイメージを固定させようという悪意を感じないでいられない。

 一方でパラリンピック障がい者のスポーツを賛美する同じテレビ画面で、次には杖をついた、認知症の気もある90歳の老人を寄ってたかって袋叩きにする。こんな醜悪な光景を流すのはいいかげんやめにしてほしいものだ。

 これでは、かつてラフカディオ・ハーンが明治大正の日本人に見出して賛美した、罪を憎んで人を憎まずの精神も地を払ったとしか言いようがない。

 大学で教えていた頃、卒業パーティの席で学生に、聖書のエピソードを引いて「たとえ寄ってたかって石を投げられようと、決して投げる側になってはならない」と語ったことがある。このところの日本は、マスコミと言いSNSといい、一億人がこぞって石を投げる側になろうと狂奔ているとしか見えない。