アグリッパ・ゆうの読書日記(2022/2/5)『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』(池上彰・佐藤優、講談社、2021)

■『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』(池上彰佐藤優講談社、2021)を読む。

評者のように同時代を生きた人間にとっては、周知のことばかりで特に目新しさはない。結論は第3章の最後に佐藤優の言葉として述べられているので、長文だが引用しておく。
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佐藤 ‥‥だから左翼というのは始まりの地点では非常に知的でありながらも、ある地点まで行ってしまうと思考が止まる仕組みがどこかに内包されていると思います。(‥‥)共産主義なる理論がどういう理論であって、それはどういう回路で自己絶対化を遂げるのか、そして自己絶対化を克服する原理は共産主義自身の中にはないのだということは、今のリベラルも絶対に知っておかなければいけないことなんです。/そして私の考えでは、その核心部分は左翼が理性で世の中を組み立てられると思っているところにあります。理想だけでは世の中は動かないし、理屈だけで割り切ることもできない。人間には理屈では割り切れないドロドロした部分が絶対にあるのに、それらをすべて捨象しても社会は構築しうると考えてしまうこと、そしてその不完全さを自覚できないことが左翼の弱さの根本部分だと思うのです。
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 これにも一理があるだろう。たとえばここ半世紀の自由民主党の一貫した強さは、田中角栄に象徴されるような義理人情を、政治の世界に多分に残していたことにあるのかもしれない(そして、今世紀に入って以来、偽リベラル・ソフトスターリニストを含む勢力によって、義理人情が目の敵のようにされて、今日の日本が不寛容・非寛容な社会となりつつあるのも、当然のことだ)。

 ただし、左翼=共産主義の自己絶対化の仕組みとしては、この佐藤優の説では弱いと言わねばならない。むしろフランソワ・フェレ『幻想の過去ー20世紀の全体主義』(バジリコ、2007)の方に急所を突く洞察が見られるので、以下に引用するー

「それでもコミュニズム信仰は、人々の精神的エネルギーの全面的傾注の対象になることにおいて、他に突出した成果を挙げてきた。それは何よりもコミュニズム信仰が、科学と道徳を一つに結びつけているがごとき外観を呈していたからである。科学的理由と道徳的理由という、元来次元が異なるはずの基本的行動理由が、コミュニズムにあっては奇跡的に結びつけられていたのだった。コミュニズムの闘士は、歴史法則の完成に携わっていると信じながら、資本主義社会のエゴイズムと戦い、人類全体のために戦ったのである」(p.197)。

 この、科学と道徳との結合こそ、コミュニズムの自己絶対化の秘密と言わねばならない。つまり、社会的正義としての革命を、共産主義マルクス主義)は科学的必然と主張する。科学的必然ではないだろうという科学上の反論を、今度は、革命への反対論は社会的悪である、という論法で批判する。マルクス主義におけるこのような科学的真理と社会的正義の閉じた循環こそ、科学哲学者のカール・ポパーが早くから予見していたように、マルクス主義を採用するあらゆる社会主義国家が全体主義へと帰着するゆえんなのだ。
 本書が終わる1972年以後、国内での中核×革マル内ゲバ激化と雁行するかのように、ポルポト派(カンボジア共産党毛沢東派)によるジェノサイドの発覚、世界中の左翼を震撼させ混乱に陥れた中越戦争の勃発、天安門事件、そしてベルリンの壁の崩壊、ソ連圏崩壊と、世界的な左翼の衰退が進行する。これを本書ではどう描くか。それによってこの二人の著者の知的水準が分かるというものだ。

アニメ『家なき子』(1977年製作)を見る

■小学生の頃は科学少年で、「ファーブルの昆虫記」とか「アンナプルナ登頂」とか、野尻抱影の「天体の神秘」シリーズとか、高学年になってはコナンドイルに夢中だったので、児童文学の名作をほとんど読み損ねてしまっていた。

 数年前、『小公子』『小公女』の、明治の名訳を図書館で見つけて読んで、感銘を受けた。まだまた、読み損ねた名作は、「フランダースの犬」「母を訪ねて三千里」「にんじん」と数多い。

 といっても、原作完訳版は「あしながおじさん」で懲りているので、なるべく原作に忠実なアニメはないかと探していたところ、見つけたのが、フランス人作家エクトール・マロ作の『家なき子』。制作は1978年とある。

 この年は最初の就職先、高知大学に赴任した年だ。なんで覚えがないのかというと、当時見ていたテレビアニメは、『キャプテン・フューチャー』と『宇宙戦艦ブルーノア』。つまり、科学少年の成れの果てらしく、三十過ぎてもアニメといえばSFだったらしい。

 家なき子に戻ると、全54話。αアニメに登録しているのでタダで見れる。面白い。それに原作に忠実らしく、何でも舞台になっている南フランスの農村にまで取材をしているらしく、教会を中心とした街並みの佇まいなど、19世紀を如実に再現していると思われた。

 レミは捨て子だったが村の農家で優しい母に育てられる。そこにパリに出稼ぎにいっていた養父が事故で足を痛め、おまけに裁判で負けて文無しになって帰ってきて、レミを、猿と三匹の犬を連れた旅芸人に売り払ってしまう。8歳のレミの旅立ちだった。

 旅芸人ビタリスはイタリアから来た謎めいた老人で、音楽と芸とそして生きるための心得を教えてくれ、レミはお師匠さんと呼んで慕う。でも、トゥールーズの町で、ビタリスは警官といさかいを起こして投獄され、犬と猿を連れて一人で生きるために小さな座長となる‥‥

 これでもかこれでもかと不運がレミを襲い、かわいそうで見ていられなくなる。でも、第9話「思いがけない出来事」の最初の方で、竪琴をつま弾きながらピレネーの山脈に向かって歌う姿は、可愛いさを越えて美しい。とても感動しました。

■追記(2022年2月20日

毎晩1話か2話ずつ見て、一週間前に全51話を見終わって、いまだに余韻に浸っています。特に後半からのオープニングアニメには、竪琴を爪弾きながら歌うレミの姿があしらわれていて、印象的です。
 竪琴弾きの旅する少年といえば、ゲーテの『詩と真実』にも出てきて、旅の途中で出会った若きゲーテは、フランクフルトに戻ると自宅の隣の家を借りて住まわせるなど、何かと面倒をみてやっていたようです。研究論文によると、この少年があのミニヨンのモデルらしいとのこと(性別が変わっていますが、ミニヨンという男性名詞に、元の名残が留められているとか)。ゲーテは1749年生まれだから、1770年か1780年代頃、つまりフランス大革命以前で、まして遅れていたドイツは中世と言ってもよい社会で、竪琴弾きの旅する少年がいても不思議ではないのですが。

 それが、ドイツに比べると一足先に近代化していたはずのフランスの、それも19世紀半ばでも、旅芸人一座という位置づけですが、家なき子の主人公が、竪琴弾きの旅する少年だったなんて。遅まきながらの嬉しい発見です。

 とにかく、原作に忠実だというこのアニメを見ただけでも、家なき子(Sans famille)という作品が、フランス・イギリス・スイスを股に掛けたスケールの大きさから言っても、波乱万丈の筋立てからいっても、そしてまたレミがお師匠さんと慕うヴィリタス老人の一座の人物造形(犬や猿もいるから動物造形というべきか)のユニークさからいっても、児童文学史の金字塔といっても過言ではありません。
 調べてゆくと、2020年にはフランスの実写映画として家なき子が日本でも公開されていたのですね。その監督も、この、出崎統監督の日本製アニメを子どもの頃にみたことが、今回の制作のきっかけになったらしい。当時(1978)は、フランスイタリアなどでも放映されて評判になっていたらしいのですね。

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映画『世界で一番美しい少年』を見る

■一昨日(12月27日)は、月曜のこととて図書館も休みだったので、また新宿まで足を伸ばし、スエーデンのドキュメンタリー映画『世界で一番美しい少年』を見た。

 新宿東南口を出てすぐ左に曲がったところの縦に細長いビルの地下にある、「新宿シネマカリテ」という小劇場だ。

 正午過ぎの時刻ということで、十数名の観客はほとんどがシニアだ。思った通り女性が多い。3,4人のグループで来ている他は、一人客の女性だ。シニアカップルが一組。その他に、シニア男性は珍しく私以外にも一人いた。こういう題名の映画を見に来るのは、男性としてはけっこう勇気がいるだろう。私は慣れているが。

 1970年に日本でも公開されて見に行った、『ベニスに死す』という映画があった。原作はトーマス・マン。映画の方はルキノ・ヴィスコンティ監督だ。

 私は原作の方を先に読んでから映画を見に行った。老芸術家アッシェンバッハの魂を奪った美少年タジオを演じたのが、15歳のビョルン・アンドルセンだった。

 今度の映画はその、世界で一番美しい少年ビョルンの栄光と零落のドキュメンタリーである。

 見終わった衝撃は、『リトル・ガール』にも勝るとも劣らない。人生の真実を見た、という気がした。

 ビョルン少年は1971年に来日もしている。この映画ではカンヌ、パリ、そして日本と、栄光の時代の足跡を、老いさらばえたビョルンが辿る、という構成になっている。

 日本に来た時にはかなりの話題になり、「永遠の二人」という日本語の歌もレコードで出しているという。それにしては来日の記憶がないのが残念だが。でも、この映画のエンディング曲として、その永遠の二人の歌が流れたのは、粋な計らいというべきか。西洋人の歌う日本語の歌にありがちな訛りがなく、ジャニーズの歌といっても通用するような、いかにもティーンの少年の声で歌われていた。もちろん16歳で背も高いから声変わりしているが、男声というより魅力的な少年の声だった。

 また、池田理代子さんも登場して、ベルばらのオスカルの作画のモデルが当時のビョルン少年だったことも明かしていた。そういえば鋭角的でしかもはかなげなオスカルの顔立ちは、ビョルン少年に似ていないこともない。

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Marc Richir (2006): Leiblichkeit et Phantasiaで指摘されるフッサール間主観性論のパラドックス構造

Psychothérapie phenoménologique , sous ladirection de Mareike Wolf-Ferida (Paris: MJW Fedition, 2006) がアマゾン経由で来たので、Ⅲ. Leiblichkeit et Phantasia, par Marc Richir (pp. 35-45) を読み始める。

 思っていた通り、ひどく難解。

けれど、私がかつて、人間的世界経験のパラドックス構造と名づけて、情報コミュニケーション学研究の論文(2014)で述べ、『人文死生学宣言』でフッサール解読にことよせてパラフレーズしていた事態に相当することを述べているような箇所があったので、以下に該当部分を試訳しておく。

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p.36

 けれども、それが何であれ、もし根源的なもの(primordiale)が単に分析の方法的一段階ではなく、実際に現象学的根拠を備えるとしたら、パラドックスが再燃する(そして困難を複雑化する)。‥‥‥‥

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アグリッパ・ゆうの読書日記(2021/12/14)『女装の剣士シュヴァリエ・デオンの生涯』に深甚なる感銘を受ける

窪田般弥著『女装の剣士シュヴァリエ・デオンの生涯』(白水社、1995)を遅まきながら一読しました。

 シュヴァリエ・デオンものは、アニメ「シュヴァリエ」、斎藤明子作『仮想の騎士』と、今世紀に入ってからのフィクションものに接してきて、もう一つ肝心のデオンの実像がはっきりしないという、不満が残っていました。

 で、フランス文学者として以前から名をしっている窪田氏の前世紀末の本格評伝を図書館で見つけて一読。読後感は、深甚なる衝撃、といったところでしょうか。こんな謎めいた妖美な人物が実在したなんて。

 もちろんフランスの外交官でしかも国王直属の密偵として女装してロシア宮廷に乗り込み、女帝エリザヴェータに取り入ったのも凄い。でも、若さと美貌があれば何とかなるものです。

 だから凄いのはロンドンに全権代理公使として赴任中の中年になって政敵から、本当は女だという噂を流されたこと。竜騎兵隊長の肩書を持ち、いつも軍服でいたし、パリ随一の剣客という評判まであっても、本当は女だと噂を流され、しかも広く信じ込まれるなんて、よほど外見にそのような素質があったのでしょう。

 この噂を逆手にとって、49歳の時から自分でも本当は女性だと主張するようになります。当時はロンドンで新任大使との抗争の真っただ中だったのですが、政敵に派遣されてきたボーマルシュもデオンに惚れて、結婚を申し入れたりしたらしい。

 でも、持ち前の激情が災いして、せっかくの王室からの有利な年金支給の話も自分でけってしまったし、なによりもフランス革命以後は収入も途絶えてしまった。そこで、女装で剣技を披露して生活の糧としようと、ロンドン随一という評判の、自分より20歳以上若い剣士にスカート姿で挑み、大方の予想を覆して圧勝して見せたりするのです。

 けれど、評者がもっとも謎を感じるのは、負傷して剣を取れなくなって貧窮のどん底に落ちて以来、かつての友人の未亡人と同居して82歳まで生きるのですが、死後、医師の手で肉体的に男性だと暴露されるまで、この未亡人も女性だと疑わなかったこと。ふつうは女性を相手に露見されないのは相当困難で、特に長らく同居している場合はまず不可能だと思うのですが、見事にパッシングしおおせたのです。一番の問題は声なのですが、「甘い声」とどこかに書いてあったように、女性的な声だったのかもしれません。そういえば、これはフィクションですが『仮想の騎士』にも「涼やかなアルト」と描写があったし。

 25歳までに学位を2つも取るなど文芸の才にも恵まれ

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映画『リトル・ガール』を見る

■昨日(11/25)は、新宿まで足を伸ばして武蔵野館で『リトル・ガール』(セバスチャン・リフシッツ監督、フランス、2020)を見た。

コロナ騒ぎが始まって以来、新宿は乗換ポイントとして通るだけだったので、街を歩いたのは2年ぶりになるだろうか。平日の昼前なのに結構な人出だった。

『リトル・ガール』は、原題 petite fille をそのまま英訳した語。「女の子」というのが一番ぴったりな和訳だ。主演のサシャは男の子として生まれた。でも心は女の子。どうしても女の子になりたい。7歳でもうじき小学校2年になるというサシャの願いを母親はじめ家族みんなで応援して、パリに行って専門の児童精神科医にも会い、性別違和という診断を貰い、学校側にも女の子として認めさせようと静かに闘うのです。でも、ずっと通っていたバレエ教室では、女性として認めないと言われて母子共々追い出されたりして。とてもつらい経験なのに周囲に心配をかけまいとじっと耐える表情に、見ている方が涙が出てきます。

 夜、ベッドで目を瞑っても、サシャの愛らしくけなげな横顔がまざまざと浮かび上がるほどに、感銘を受けました。フランス映画らしく、悲しいまでに繊細で美しい、フィナーレ近くから流れたドビッシーの「夢」がピッタリ来る珠玉作です。これでドキュメンタリーだというのだから驚き。

 それにしてもMtF性別違和を取り巻く一般社会の反応は、60年前の日本とたいして変わっていないなと、カルーセル麻紀をモデルとした小説『緋の河』(桜木紫乃、2019)を思い浮かべて比べた感想です。違いといえば児童精神科医による診断・治療の機会ぐらいか。この小説については、オンラインジャーナル『こころの科学とエピステモロジー』2号に「美女になるという運命の呼び声を聞いた男の子の物語」と題した書評を載せておいたので、参考までに。

 カルーセル麻紀の時代には水商売か芸能界入りぐらいしか選択肢がなかったのに対して、サシャは普通の女性として生きようとしている、そこが進歩といえばいえるかな。また、第二次性徴発現前に抗ホルモン療法を始めるかどうか決めなければならないと、女性の児童精神科医に言われるところが興味深かったです。
 たとえば、前立腺ガンの治療に使われる抗アドレナリン薬のビカルタミドみたいに、毎日内服して細胞のアドレナリンレセプターに蓋をする作用の薬でしょうか。女性ホルモンの方は男の子の体でも分泌が続くので、アドレナリンの作用が消えたぶんだけ女性的性徴が発現するはずです。ちょうど、精巣性女性化症のように、染色体はXY型でも外見は完璧な女性になる可能性があります。ただし不妊なのはどうしようもないのですが。

 ちなみにあれからドビッシーの「夢」を繰り返し繰り返し聞いています。これからも聞くたびにこの映画のことを思い出すでしょう。サシャの幸せを祈らずにはいられません。
 

心理学者正高信男氏の論文不正報道について

■もう一週間前になるが、京大霊長研所属(今年度定年退職)の心理学者正高信男氏に論文不正があったことが大学側の調査で判明したというニュースを読んだ。

  ああ、やっぱり、と思った。氏の著書といえば、数年前に自分のコミュ障研究の必要性から、『コミュ障ーー動物性を失った人類』(講談社ブルーバックス、2015)を読んだだけだが、あまりのデタラメぶりに担当編集者に抗議したくなった。ブルーバックスのような一応は権威ある(?)レーベルの編集者の癖にこんな本を書かせて著者の晩節を汚させた、といったように。

 だから、今年の6月に出した『明日からネットで始める現象学』では、わざわざ、<読んではいけない!「専門家」によるコミュ障本>という小見出しを設けて槍玉にあげて置いた(pp.114-116)↓↓↓

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 正高本の方は読むだけ時間の浪費だったとさっさと古本屋に売ってしまって手元にないが、記憶の限りでは今回の捏造実験の元になったアイデアらしきものが書いてあったような。

 ネット検索すると正高氏は小保方晴子の新刊をずいぶんと批判しているが、やっていることは大同小異だ。心理学界全体が迷惑するからこういうことはやめて欲しいものだ。